5月30日(日)礼拝説教全文

「十字架に向かって立つ」 マルコ15:33~47   死んで葬られ(使徒信条)

見出し

イエスの死(:33~41)

墓に葬られる(:42~47)

「我らは信ず。御子イエス・キリストは、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ・・・」


イエスが十字架につけられたのが午前9時です。

9時~12時

最初十字架の下にいた、祭司長、律法学者たち、又、群衆も、ユダヤ人の王には程遠いイエスのみじめな姿を罵っていたでしょう。罵る人々にイエスは父なる神に赦しを祈っています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」(ルカ)。十字架に共につけられた強盗のひとりは、十字架の上で回心します。イエスは彼に言われます。「よく言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」(ルカ)そして、十字架の足元にいる母マリヤとヨハネへことばをかけられます。「女よ、見なさい。あなたの子です」「見なさい、あなたの母です」(ヨハネ)。

12時~3時

マタイ、マルコ、ルカは12時になる頃、太陽が真上に上がる頃、全地は暗くなったと証言しています。ルカによる福音書では、太陽は光を失ったと記されています。

太陽が光を失った。全地は真っ暗になった。ある歴史学者は、日食が起こったのではないかと言う人もいます。真昼にも関わらず、ゴルゴダの丘は暗闇に包まれます。

暗闇の中、午後3時まで、沈黙が続きます。

3時

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(アラム語発音)」(エリ、エリ、ラマ、サバクタニ ヘブル語発音 マタイ)マタイとマルコは、十字架上でのイエスのことばはこのひとつだけ。詩篇22:2(聖書協会共同訳)のことばです。

詩篇22:2には続いてこのように書かれています、「私の悲嘆の言葉は救いから遠い。わが神よ、昼に呼びかけてもあなたは答えられない。夜もなお、私は黙ることができない。」

イエスは、「父よ」と呼ばれず、「わが神よ」と呼んでおられます。全地が暗くなったという出来事と、神がイエスのことばにお答えにならない事が呼応しています。御顔を背けておられる父なる神。イエスは、多くの人の罪を背負い、罪ある者として、神に捨てられて下さいました。父なる神と、命、愛の交わりが断たれている罪ある者、死に向かう人間の姿があります。

イエスは「渇く」と言われます。(ヨハネ)

人々は、海綿をヒソプに付け、酸いぶどう酒を浸して、イエスの口元に運びます。イエスはそれを受けられます。十字架刑による激しい渇きの中で、喉を酸いぶどう酒を受け、大事な宣言をされます。

大声を出して、息を引き取られます。マルコはそのことばを記していませんが、ヨハネとルカが2つのことばを記しています。

「成し遂げられた」(ヨハネ)

「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ)

「成し遂げられた」と言われた時、神殿の幕が真ん中から裂けます。

そして、イエスは「父よ、私の霊を御手に委ねます」と大声で叫ばれ、息を引き取られます。

一部始終を、十字架に対面して見ていた人がいます。十字架の監視役のローマの百卒長です。

彼はこの十字架の出来事に何を見たのでしょうか。

「まことに、この人は神の子だった」と言っています。マタイ、マルコ、ルカに百卒長のことばがあります。

マグダラのマリヤ、イエスの母マリヤ、サロメ、女たち。ガリラヤからイエスと共にエルサレムへ上って来た女たちも大勢いました。ルカでは、見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら

帰って行ったとあります(ルカ23:48)最初、イエスを罵っていた人たちも、胸を打ちながら帰って行きます。

金曜日の夕方、安息日(土曜日)が近づいています。アリマタヤ出身のヨセフは、高名な議員、神の国を待ち望んでいた人。ヨハネによる福音書では、アリマタヤのヨセフとニコデモがイエスの遺体を引き取り墓に納めたと書かれています。イエスの反対者の最高法院のメンバーの中にも、イエスを信じる者がいたことがわかります。立場上、自らがイエスの賛同者であることを言えないでいた人たちです。しかし、ここでは、〈思い切って〉とありますように、意を決してピラトにイエスの遺体を引き取ることを願い出ています。

隠れキリスタンという言葉がありますが、表立ってイエスに従った弟子たちではなく、彼らは尊い働きをします。

仮に、イエスの弟子たちが願い出たならば、それは引き渡されなかったかも知れません。

ピラトは、イエスの死を百卒長に確認して、イエスの遺体をヨセフに引き渡し、ヨセフは新しい墓(まだ誰も葬られていない墓)に納めます。マグダラのマリヤ、イエスの母マリヤはその場所を見届けます。

この朝、私達は再び十字架の出来事を読みました。

イエスに向かって立っていた百卒長は、「まことに、この人は神の子だった」と言ったとあります。

私達キリスト者は、『十字架につけられたイエスに向かって立つ者達』です。私達の信仰の生涯は十字架に始まって十字架で終わります。私達の救いは、イエスの十字架の贖いによる恵みによります。イエスのいさおによります。只々、キリストの真実によって救われ、義とされるのです。

他に救いの道はありません。

私達の信仰が違った福音へ陥っていくことがあります。聖書の戒めを守らなければ救われないとか、聖霊のバプテスマを受けて異言が語れないと救われないとか、イエスの癒しや奇跡を信じないから救われていないとか、洗礼を受けなければ救われないとか、教会員にならないと救われないとか、もっと多く捧げないと救われないとか、もっと熱心に求めなければ救われないとか、似て非なるものが多くあります。

異教は全く違うのでわかりやすいですが、異端はとても似ているので見分けがつきにくいものです。

律法を守る事や、人の熱心さではありません、十字架の前に立ち続ける、いつもそこに身を置く。そしてキリストの贖いを、その愛を、血潮によるきよめをいただくことです。

礼拝の中で、聖餐式が行われます。カトリックでは、礼拝自体がミサであり、聖餐式が毎回あります。それは、どんな時も、イエスの十字架の恵みを受け続けるという意味があります。それがキリスト者の生涯為すべき信仰の道なのです。

今日も、十字架の前に立ち「あなたこそが、生ける神の御子、救い主です」と心からの告白を捧げましょう。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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