6月6日(日)礼拝説教全文

「ここにはおられない。よみがえられた」 マルコ16:1~8

見出し 復活する(:1~8)

イエスの生涯を、礼拝でマルコによる福音書から読んでまいりました。いよいよ最終章となります。

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり(使徒信条)。本日は「三日目に死人のうちよりよみがえり」の記事を読みます。

十字架に向かい、その足元に身を置いた私達は、今朝はイエスの御遺体が納められた墓に赴きます。

マグダラのマリヤをはじめとする数人の女性たちが、イエスの身体に塗る香料を用意して墓に出かけて行きました。(:1)日の出と共に、朝早く。イエスが十字架で息を引き取った時、安息日が迫っていたので、イエスの遺体は急いで墓に納められました(安息日には何の仕事もしてはならないという戒めのため)。それはアリマタヤのヨセフとニコデモ(ヨハネによる福音書)による埋葬で、マグダラのマリヤと女たちは、自分たちの手で、丁寧に、哀悼をもって埋葬をしたいと願っていたのでしょう。

イエスの納められた場所を既に見届けていた女たちは、土曜日の安息日が明けるや否や、朝一番にイエスの遺体の納められた墓に赴きます。師であるイエスへの女たちの愛がそうさせています。

イエスの復活の出来事は4つの福音書にあり、どれも若干違っています。しかし一様に、イエスの埋葬から三日目、日曜日の朝の出来事を記しています。私達が土曜日に安息日とせず、日曜日を安息日としていますのは、主の日、復活の主の日としてです。それは「聖日」であり「主日」となります。キリストの教会において、安息日が変更されたことは、イエスのよみがえりの確かなしるしです。なぜならば土曜日安息は、ユダヤ人にとって不変のものだからです。変わらないものが変えられた程の大きな出来事。土曜安息ではなく、日曜安息がスタートしたのは、イエスが復活されたからです。(今も土曜安息を守る教会もあります。)古いものは過ぎ去り、見よ、全てが新しくなりました。

● 空の墓

墓に向かっていた女たちが気にしていましたのは、墓を閉じている大きな石を誰が転がして開けてくれるかということでした。女性の力では転がすことの出来ない程に大きく重いものであったことがわかります。イエスを死に閉じ込めていたのは動かすことのできない大きな石です(封印され、厳重な見張りもついていました(マタイ27:62~66)。しかし、墓に到着して女たちが見たものは、墓を閉じていた「あれほど大きな石」は封印が解け、既に転がしてあり、ぽっかりと開いた空の墓でした。 

* 日本の墓とは違って、横穴式の墓で、入口は大きな丸い石のフタで閉じてありました。

女たちが墓の中に入ってみると、イエスの置かれていた石の床の右側に、ひとりの白い衣をまとった若者が座っていました。(マタイでは、雪の様に白い衣を着た御使いが、石を転がし、石の上に座って、女たちに告げます。ルカでは輝く衣を着た二人の御使いが女たちのそばに立って、とあります。ヨハネでは、イエスの遺体の置いてあった所に、二人の御使いが、一人は頭の方に、一人は足の方に座っているのが見えたとあります。)そして、最初の良きおとずれは、墓を訪れた女たちに知らされます。福音(ゴスペル)、GOOD NEWS!  

この良き知らせを、この朝もう一度、私達も聞きましょう!

● 最初の良き知らせ

白い衣を着た若者は、女たちにこの知らせを告げます。

「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は、復活なさってここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

さあ、行って、弟子たちとペトロとに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。(お会いできます)』」

マルコでは、女たちは墓から逃げ去り、正気を失って、恐ろしくなって、誰にも言わなかった、とあります。

マタイ=急いで弟子たちに知らせた ルカ=女たちは弟子たちに知らせた ヨハネ=マグダラのマリヤは弟子たちに知らせた。これも、4つの福音書は少しずつ内容に違いがあります。

① ここ(墓)にはおられません He is not here! 墓は死、そして闇です。

イエスは死人の中にはおられません。死んだ偉人の中に数えられるお方ではありません。遺骨もありません。 

冷たい、もの音ひとつしない、虚しい、暗い、墓の中にイエスはおられないのです。

死は全ての人の、私達の人生の、私の人生の最後の課題です。死を経験することは、誰ひとり避けられないものであり、必ずやって来ます。年老いていても、若くても、死はやって来ます。差別なく、区別なく。

金持ちも貧しい者も、人の行き着くところは「墓」です。

しかし、この朝、聞きましょう。イエスは墓の中にはおられません!死人の中にはおられません!それは死に定められた私達に対する、驚くべき良き知らせです。

② よみがえられました (For)He is risen! よみがえりは光、そして命です。

イエスはよみがえられました。

イエスにある人生の最後は死ではありません。闇ではない、よみがえりであり、命です。

よみがえりこそが、死に対する勝利であり、人類の死の歴史に対する勝利であり、私(達)の死に対する勝利です。  「死」はわたしの人生の最後の課題であり、「罪」はわたしの人生における解決すべき最も大きな課題です。

  そして、「死」に対する明確な解決・勝利の根拠は、イエスの「よみがえり」です。

  

* イースターに象徴されるたまご。たまごの中から、その殻を破って、新しい命が生まれます。 

たまごと、ひよこはまったく異なるものです。たまごからたまごが生まれたら大変です。

  …新しく生まれる、新しい命によみがえるとは やごがとんぼに 車が飛行機になるようなものです。

  時が過ぎると再び死んでしまう身体ではない。同じ身体で息を吹き返す(蘇生)のではない。

③ お目にかかれる(お会いできます)

私達はよみがえりの主にお会いできます。

今、私達の人生の歩み、生活の中において。どこでお会いできますか?

教会(エクレイシア)で。神を礼拝する人々の中で。(祈り、賛美、みことば)

キリストにある兄弟姉妹の愛の交わり(コイノニア)の中で。

主イエスに信頼する働き(仕事・家庭・学び)の中にも

心を合わせて、共に祈る祈りの中に

「2、3人わたしの名によって集まるところに私もその中にいる マタイ18:20」

…教会の祈りについて語られている主イエスのことば

そして、私の日常生活の、手を合わせる祈りの中で、どこにおいても。密室において。

私達はイエスにお会いできます。なぜなら、イエスはよみがえられたからです。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか(ヨハネ11:25)」

あなたは、ただひとり死からよみがえられたイエスのあなたへのことばを信じますか。

はい、主よ。あなたこそ神の御子、死からよみがえられた救い主であると私は信じます。

心からそのように告白できる者は幸いです。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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