6月13日(日)礼拝説教全文
「信じてバプテスマを受ける者は救われる」 マルコ16:9~20
見出し
マグダラのマリヤに現れる(:9~11)
二人の弟子に現れる(::12~13)
弟子たちを派遣する(:14~18)
天にあげられる(:19~20)
イエス・キリストの生涯をマルコによる福音書から読んでまいりました。本日で最後となります。
これまで、イエスの権威あることばと力あるみ業を読み、十字架と復活の出来事を読みました。私達が日々礼拝をささげ、祈り、交わりをいただいているイエスをもっと知りたい、そのような思いで読んでまいりました。イエスこそ、生ける神の御子、私達を罪と闇、死と滅びから救う為に天から来られた救い主であると聞きました。イエスの全てが、私に対する「神の救い」の福音です。
このイエスの生涯を通して、最後に福音書が語るのは、「あなたはこのイエスを信じるか」という問いです。それが宣教のことばであります。
イエスの復活の知らせは、最初、御使いを通して女たちに語られ、その後、イエスは、マグダラのマリヤに、エマオに向かう二人の弟子に、そして十一人の弟子たちにご自身を現わされます。
しかし、繰り返しマルコによる福音書が語っていますのは、「人々は信じなかった」というものです。
11節、マリヤは復活のイエスと出会って、イエスが生きておられ、お姿を見たと証言した。しかし聞いた人たちは、信じようとはしなかった
13節、田舎に向かっていた二人の弟子は、復活の主と出会った。二人は戻って行って知らせたが、彼らは信じなかった
14節、イエスは十一人の弟子たちにご自身を現わされ、不信仰とかたくなな心とを咎められた。彼らが、信じなかったからである
イエスがよみがえられた知らせを、「信じなかった」、「信じなかった」、「信じなかったからである」と聖書は伝えています。
聖書の語る人間の最も愚かで、最も憐れむべきものは何でしょうか。不信仰とかたくなな心です。
全世界に行って、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい!それは、復活されたイエスが弟子たちに語られた大宣教命令です。
その宣教の内容は、「信じて、バプテスマを受ける者は救われます」というものです。
(神の御子であるお方が、人として生まれて下さり、私達の罪の為に十字架に死んで、三日目によみがえって下さったイエス(の御業とその約束)を「信じて、バプテスマ(洗礼)を受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」これが宣教のことばです。
① 信じる(信仰)とは何か
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。人はイエスを信じる信仰によって救われます。イエスを知ることは最も大切なことです。
信じるの反対=疑う 信じ続けるの反対=あきらめる
信じる=望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信する(ヘブル11:1)
信仰とは、目に見えないお方、その約束を受け取ることです。
私達はこの世にあって、何を信じていますか。
人か、お金か、国か、両親、妻・夫、兄弟、子供、親族、友人、恋人、上司、同僚、学校の先生…。
努力だけは裏切らない、動物だけは裏切らない、と言う人もいます。
人は多くの人間関係の中で傷つき、裏切られて、信じられなくなってしまいます。国や社会に対しても同じです。信じられるのは自分とお金だけだ まさにかたくなな心に陥ってしまいます。
長く生きれば生きるほどに 人の心は固く(かたくな)になっていきます。
年をとると柔軟さがなくなります。かたくなさは年齢と共に増します。
そのような私たちに、マルコによる福音書を通して、イエスは徹底的な愛を示され、「わたしを信じなさい」と言われます。
愛は目に見えません、希望も目には見えません、神様も目には見えません。
しかし、聖書は、ただ神のひとり子なるイエス・キリストが、人となり、愛を、希望を、目に見えない神を、私達に目に見える形で現してくださいました。
「『キリスト・イエスは罪人(このわたしを)を救うためにこの世に来られた』ということばは、真実であり、すべて受け入れるに値します。」(第一テモテ1:15)
主イエス・キリストは、
ひとりで生きる者ではなく、私を神と共に生きる者とし、
私達の人生の意味と目的を取り戻させ、
決して希望を失わず、
神を愛し、人を愛する者とし
平安と喜びをもって生きる者とするために、私の人生に来て下さったお方です。
イエスは私の罪の赦しの為に、十字架で命を捨てて下さいました。
イエスは、私に永遠の命を与える為に、三日目によみがえって下さいました。
十字架と復活、マルコによる福音書に書かれたイエスの生涯は、この私の救いの為でした。
イエスの成し遂げられたこの福音を聞いて、
イエスは神の御子、私の救い主です とあなたが心から信じるなら、誰がではない、神があなたに「救い」を与えて下さいます。
* 太文字のくりかえし
神の前にそのように生きることのできなかった罪を悔い改めなければなりません。
「信じてバプテスマを受ける者は」とあります。
信仰もバプテスマもひとつです。
信仰は心で信じること、バプテスマ(洗礼)は口と行動で表す信仰告白です。
人は信仰によって救われます。バプテスマを受けなければ救われないわけではありません。しかし、信仰とは、心と生き方です。神を信じて、神と共に生きる人生がスタートしました。救いを与えられた者の第一歩が洗礼を受けるということです。「わたしは生涯、イエス・キリストをわたしの主・神・救い主として、従ってまいります」と信仰を言い表すのがバプテスマの大事な意味です。
みことば(:15~16)
不信仰、かたくなな心で生きる者ではなく、今日、イエスの招きのことばにお応えしませんか。イエスを信じて、神の豊かな救いを受け取ってください。
0コメント