7月4日(日)礼拝説教全文
「あきらめない弁護者イエス」 ヨハネの手紙一2:1~6
聖書協会共同訳聖書見出し 「弁護者キリスト」
「わたしの子たちよ。」年老いたヨハネは、キリストにある兄弟姉妹に対して霊的に子どもたちに対するように愛情を込めて呼びかけています。
「これらのことを書き送るのは、」と再びヨハネはこの手紙を書く目的を示します…既にヨハネは、御父と御子イエス・キリストとの交わりを持つようになるため(1:3)、私たちの喜びが満ち溢れるようになるため(1:4)、と書いています。
そして、本日はこの手紙を書く目的を「罪を犯さないようになるためです。」(2:1)と語ります。
1、罪を犯さないようになるためです
イエスを信じて、神と交わりを持ち、イエスの血潮によって清められる私たちの歩みは、もはや「罪を犯さないようになる」のでしょうか?罪を犯さないで生きることができるのでしょうか?
「罪を犯すことのない日々を歩みたい」「正しく、清く生きたい」「神に喜ばれる道を歩みたい」と私たち、神と交わりを持つ者はそのように願います。
しかし、それでも、私たちは過ちを犯します。罪を犯します。「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に座らぬ人は幸いである」(詩編1:1)というみことばがありますが、私たちは時に過ちを犯し、人々から「クリスチャンなのに、牧師なのに」とか、又、訴える者(サタン)からも「それでもイエスを信じる者なのか」と責められます。自分はイエスを信じてからも、何も変わっていないのではないか?人を受け入れられず、赦せず、周りに無関心で、他の人とすぐに比べて妬んだり、自分はできるが彼はできないと誇ったり、褒められなかったり評価されないと怒り、無作法で、いつも損得を勘定し、いらいらし、怒りっぽく、何か気に入らないことがあると恨みを抱く。異性にみだらな思いを抱き、人を色眼鏡で見、クリスチャンの兄弟姉妹を馬鹿と罵り、裁く…自分の何が変わり、清められたのか?少しはましな人間に成長したのか?と悩むことがあります。
そのような私たちにヨハネは、「子たちよ、罪を犯さないようになることです」と勧めます。
泥棒をしていた人が、イエスを信じて泥棒を続けることはできません。やくざをしていた人が、イエスを信じてやくざを続けることはできません。身体を売って商売をする遊女が、イエスを信じてその仕事を続けることはできません、と回心します。もう、闇の中を歩くことがないからです。
しかし、それでも、私たちは誘惑に脆く、忍耐が出来ず、口も感情も制御できない者です。
男性にとっては性の衝動を制御する事は難しく、女性は嫉妬心を制御することが難しいものです。性欲は色欲・不品行に、食欲は暴食に、睡眠欲は怠惰に至らせます。欲求自体は罪ではありませんが、私たちは欲望を制御できません。
悪い習慣、湧き上がる激情を何度も止めようと願い、祈りました。しかし、同じことを繰り返してしまいます。自分には罪を犯さないような生き方はできない、と、そのようにあきらめてしまいます。
「罪に対して抵抗しても無理です」「あきらめてしまいなさい」「救われていないのではないか」「信仰をもってもあなたは変わらない」このように訴えるのが、サタンの常套手段です。
「あなたがたはまだ罪と闘って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:4)。罪との闘い、不信仰との戦いを放棄してはいけません。とことん、天国に行く日まで、あきらめないでください。信仰を捨てないでください。最後まで耐え忍ぶ者は数われます。
* アニメの有名なことば スラムダンク バスケの漫画 監督の安西先生が、選手の三井に掛けた言葉。「最後まで…希望を捨てちゃいかん。あきらめたらそこで試合終了だよ」
2、あきらめない弁護者イエス
ヨハネは続けて書きます。「たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。」
イエスは私たちの罪を弁護してくださいます。罪は有罪なのですが、ご自身の血潮(宥めの献げ物)をもって、弁護して下さいます。何度繰り返し罪を犯しても、7度を70倍赦しなさいと言われたイエス(マタイ18:22)は、弁護をあきらめない、降りないお方です。私たちを愛し、赦し、救わんが為に執り成し、弁護し続けて下さいます。
最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちの足を洗われます。ペトロは「私の足など、決して洗わないでください」と言います。イエスは「もし、私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関りもなくなる」と言われます。ペトロは「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言います。イエスは「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだ」と言われます。(ヨハネ13:8~10)
全身は清いのです。しかし、草履で埃の道を歩けば、足は汚れます。イエスは、「私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。」(ヨハネ15:3)と、手入れをされた枝、ぶどうの木につながっている枝について言われています。十字架の血潮は、私たちを全ての罪から清めます。イエスを信じて、「あなたがたは救われた」のです。すでに清いのです。
私(たち)は十字架によって全ての罪は赦されたのだから、もう悔い改める必要はないのでしょうか。もし、罪を犯したのなら悔い改めが必要です。私(たち)は何度も何度も誘惑に負けて罪を犯してしまうのです。くじけそうです。諦めてしまいそうです。私(たち)はクリスチャンとしてふさわしくありません。知って下さい。イエスはあきらめない弁護者です。何度でも足を洗って下さいます。「私の足など、もう洗わないでください」と私たちは言いたくなるかも知れない。「もし、私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関りもなくなる」とイエスは、私たちを愛し、赦し、清め、あきらめずに執り成し、弁護をしてくださいます。
この愛の中にとどまることこそ!イエス・キリストとの交わりです。
御父の元に、ご自身の十字架で流された血潮をもって執り成す弁護者イエスが、私たちの救いの、罪に勝利する大根拠です。たとえ罪に負けても、十字架をもって勝利するのです。あきらめない弁護者イエスがおられるのですから、私たちもあきらめないのです。
3、みことばに従う
「罪を犯さないようになるためです」日々私たちには罪の誘惑があります。どのように罪と闘えばよいのでしょうか。神との交わりを持つ私たちは、神の戒めをいただきます。そして神の言葉に生きたいと願います。聖書のことばに聞き従うのは、神を愛し、光の中を歩んでいるからです。神を愛する者は、神のことばに従います。イエスの執り成し、弁護こそが、罪に対する完全勝利です。その愛の中で、なお清く生きたい、正しく生きたいのです。みことばには私たちの魂を救う力があります。神のことばには力があります。
神の言葉を守る時、私たちの人生に神の愛が真に全うされています。「神のうちにとどまる」その交わりの中で、イエスが歩まれたように、自らも歩む道が開いていきます。
イエスを信じ、交わりを持つと、性格も人格も、聖人のように、清い人、正しい人、強い人、に変わるのか?
聖霊の働きと私たちの人格は大きなテーマです。
何が変わるのか。神を愛し、神に従い、みこころを聞き、感謝し、祈り、神を賛美する礼拝者に変えられます。いつも神の前にへりくだり、聖霊を求め、主の再臨を待ち望み、全てにおいてイエスにより頼む人間に変わります。神の働きに生きたいと願います。生ける神の御臨在の前に生きる者に変えられます。
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