7月11日(日)礼拝説教全文

ヨハネ第一2:7~16「古くて新しい戒め」  

-教会が教会であるために- 「兄弟愛の建設」

聖書協会共同訳見出し 新しい戒め

老ヨハネがキリストにある兄弟姉妹に書き送るのは、心から願うのは、昔から聞いていた旧約聖書にある戒めです。

古くから聞いている戒めですが、新しい戒めとして、もう一度書き送ります、とヨハネは告げます。

それは「互いに愛し合いなさい」という戒めです。

イエスは、聖書の律法(昔から人々が聞いていた神の戒め)の中で最も大事な戒めは、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19:18)の二つだと言われました。( マタイ22:37~39、マルコ12:28~31 ルカ10:25~28)

神を愛し、隣人を愛すること。これについて、ヨハネは、「きょうだい」を愛しなさいと、特に「きょうだい」を愛することを強調して告げます。聖書協会共同訳では、第一ヨハネで使われる兄弟という語を「きょうだい」とひらがなで表記されています。ここで言う兄弟とは、実の兄弟姉妹のことではなく、キリストを信じる者同士のことを「きょうだい」と呼んでいます。

キリストを信じる者たちは、同じお方を「父」と呼ぶ、新しい神の家族、兄弟姉妹です。教会で互いに呼び合う時に〇〇兄弟、〇〇姉妹という呼び方をします(今は性別を特定することばで人を呼ぶことに、注意しなければならない時代ではありますが)。いつの時代から日本の教会において、兄弟姉妹と呼ぶようになったのかはわかりませんが、教会はファミリー(家族)であり、コミュニティー(共同体)です。イエスによって結ばれた家族です。特に異邦人である私たちは、神の民イスラエルに養子縁組されたような者たちです。生木ではなく、接がれた枝です。血縁という言葉にあるように、血の繋がりの愛も深いものがあります。親子、兄弟姉妹、親族、一族。母が子を愛する愛は、まさに胎から生まれた、自らの分身の様な存在に対するからかも知れません。とすれば、私達キリスト者は、キリストの血による繋がりと言えるかも知れません。私たちキリスト者の間を結ぶもの、その絆は、「キリストの愛」です。私たちはキリストが愛したように互いに愛し合います。

両親がいなくなって、夫や妻がいなくなって、兄弟がいなくて、子供がなくとも、決してひとりではありません。孤独ではありません。「神の家族」、キリストの教会があるからです。キリストの教会に結ばれていることは、私たちにとってどんなに大きな恵みでしょう。変わらない家族があるのです。

全世界の人々を愛する、隣人を愛する、小さな者に憐みの心を閉ざさない、敵をも愛する。どれも「隣人を愛せよ」という聖書の戒めの例外ではありません。しかし、その中で、神の家族、「きょうだい」を愛することは特別な意味を持ちます。なぜなら、私たちは既にキリストにあって一つとされた者、存在であるからです。

イエスが世に来られ、私たちの人生に来られ、闇が過ぎ去り、既にまことの光が輝いています(:8)。私たちはイエスの照らす光を持っています。その中を歩んでいます。私達「きょうだい」は特別な関係です。「きょうだい」を愛するのは特別なことです。既にイエスによって互いに兄弟姉妹、家族とされているからです。

ヨハネは、昔から何度も聞いていた古い戒めをもう一度伝えます。わたしの子たち、兄弟姉妹たち、愛する人たち、互いに愛し合いなさい。「きょうだいを愛する者は、光の中を歩んでおり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は闇の中を歩んでおり、どこに行くのか知りません」。

ヨハネは、手紙を書いた目的を、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりの中に、私たちがいるように、あなたがたも加わる為、そして喜びが完全なものとなる為だ、と言いました。この交わりの中にいる者たちが、もし、互いに憎み合っていたとしたら、互いに憐みのない無関心な者であったとしたら(それはあり得ないことですが、人の弱さの故に起こることがあります)、それは神との交わりを持っていない者であり、尚、闇の中を歩んでいることになります。

キリストの身体である教会が、互いに愛し合っていないとするなら、どこで私たちはキリストの愛を経験することができるのでしょうか。教会は、神の家族愛をもって、兄弟(姉妹)愛をもって、神の愛があらわされるところです。イエスの愛を伝える最も大きな証詞は、教会の神の家族のキリストの愛による交わりです。

ヨハネは「子たちよ、父たちよ、若者たちよ…」と神の家族、兄弟姉妹に呼びかけます。

イエスの名によって罪が赦されたことを、覚えなさい。 「子よ、あなたの罪は赦されました。」

天地を造られた父なる神、父なる神がおられることを、覚えなさい。 「父たちよ、まことの父は天の父です。」

悪い者に、神の言葉によって勝利したことを、覚えなさい。 「若者たちよ」、「どうすれば若者は自分の道を清く保てるでしょうか。あなた(神)の言葉どおりにそれを守ることによってです(詩編119:9~11)」

世と、世にあるものを愛しては(執着しては)なりません。

私たちはこの世にあっては寄留者、旅人です。土地に執着しない、持ち物に執着しない、天にある故郷を求めている者たちです。

多くの財を持てば、目も心も、多くの持ち物にいきます。 

世にあるものとは、「肉の欲」、「目の欲」、「見栄を張った生活」に陥らせやすいものです。 

*イエスの40日の荒野の試み 

石をパンに(食欲)。神殿から高台から飛び降りてみなさい(奇跡)。世の全ての栄華を見せて(持ち物の誇り…お金持ちの傲慢)。

世も、世の欲も過ぎ去ります。一時的な快楽です。

しかし、神の御心を行う(神のことばに従って生きる)者は、永遠にとどまります(残ります)。

「互いに愛し合いなさい。」これは、2000年よりずっと前、旧約の時代から、聖書の戒め、神の戒めです。古い戒めです。そして、何度も私たちが耳を傾けることばです。

しかし、その新しさは、イエスが最後の晩餐の席で言われたことばの中にあります。

「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。《私があなたがたを愛したように》あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。そして、続いてこう言われています。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう」

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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