7月18日(日)創立50周年記念礼拝説教全文

「神の栄光を見る」-50年の歩み-  ヨハネによる福音書11:38~44 

本日は勝田台キリスト教会50周年記念礼拝となります。主が大牧者として、どんな時にも勝田台教会、私たちと共にいて導いて下さり、祝福して下さったことを感謝します。

1971年4月、中居豊牧師、栄子牧師が日本ホーリネス教団から佐倉開拓に任命され、着任されました。開拓伝道の準備がなされ、4名の聖書学院修養生が伝道チームとして派遣されて来られました。そして、1971年7月18日、勝田台天幕クルセードが開始されました。その日から本日が丁度50年となります。勝田台、米本、志津、大和田で天幕集会を7~10月まで行い、その年の12月12日、最初の教会堂が建ち、献堂式が行われました。中居豊牧師、栄子牧師の45年間の歩み、勝田台教会の歩みは、決して平坦なものではなかったと思いますが、神様が牧師と教会に、順風の時も逆境の時も、その都度みことばを下さって、励まし、聖霊に満たし、力を与えて前進させて下さったことを感謝します。

(開拓期の教会の歩みの中で私が特に注目したのは、多くの伝道者を迎えての特別伝道集会です。そこで招きがなされ、信仰決心した多くの人たちが洗礼を受けています。中野雄一郎先生、本田弘慈先生、田原米子先生、村上宣道先生、榊原寛先生、大衆伝道に長けた先生たちをお招きしています。もうひとつは、学び会をよくされています。伝道と教育のしっかりとした骨子を持って歩んで参りました。)

教会開所の経緯は、50周年記念誌の会堂編、年表・写真集に詳しく書かれていますのでご覧ください。

50周年の記念誌も完成し、私自身も50年の勝田台教会の歴史を振り返りながら、教会の開拓期の会報、豊先生、栄子先生の文章を読み、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか。」(:40)という聖書のみことばを、記念誌の巻頭のみことばとして取り上げさせていただきました。そして、本日は記念礼拝の聖書箇所として、この個所からメッセージを聞きたいと願っています。

このみことばは、勝田台教会にとっても、私達信仰者にとっても、イエスからのチャレンジのことばです。

1、苦難の中にイエスがおられる

もう駄目だと言うのか。無理だと言うのか。不可能だと言うのか。あきらめてしまうのか…。そのような中で、イエスは「もし信じるなら、神の栄光を見る」と言われます。

イエスが私たちに求められるのは、「信仰」です。周りの嵐を見ておののくのではなく、自分の手持ちが少なくて落胆するのではなく、イエスをしっかりと見て、イエスを信頼して「踏み出す」ことです。イエスを信じることです。「もし信じるならば」とおっしゃる、信じるべきお方はイエスであり、イエスの力であり、そのおことばです。

このみことばが語られる背景には、「愛する者の死」という大きな耐え難い悲しみ、すなわち、人が決して克服する事のできない「死」という絶望、そして、イエスの到着が間に合わなかったというあきらめが渦巻いています。

愛する弟ラザロの死を悼んで、姉マルタもマリヤも泣いています。村人も泣いています。

人々の悲しみと絶望、あきらめの只中に、知って下さい、イエスが立っておられます。

2、憐み豊かなお方イエス

そのような人々の中で、イエスは憤りを覚え、心を騒がせられます。霊の憤りを覚え、心の感動を覚えられます(:33)。そして、またも心のうちに憤りを覚えながら(:38)そのお心を奮い動かされます。

そして、短い言葉ですが「イエスは涙を流された(:35)」とあります。ギリシア語の聖書の中で最も短い文(節)です。冠詞をいれて3語です。エダクリュセン・ホ・イエスース。Jesus wept. 

私たちの人生の悲しみの只中に立たれるイエスはどのようなお方でしょうか。理性的なお方でしょうか。感情的なお方でしょうか。時に、理性は完全で、感情は不完全なように思われることもありますが、イエスは血の通った(反対:血も涙もない)、心ある、心豊かなお方です。又、神はご自身のおこころを動かされるお方です。何でも決められた通りに、何の感情もなく為されるお方ではありません。全てにご計画通りになされる秩序正しいお方ではありますが、時にはおこころで動かれるお方でもあります。憐み豊かなお方です。憐み=可哀想に思い、共感する心。

私たちの主イエスは、私たちの悲しみも、喜びも知っていてくださいます。聖なる、愛なる、義なる、喜怒哀楽のあるお方です。理性と感情が完全に調和されたお方です(私たちはそのバランスが悪い者たちですが)。特にルカによる福音書に描かれているイエスは、人として完全な(理想としての)お姿があります。

今、ここにそのイエスがおられます。

私達の人生の耐え難い悲しみ、望みが絶たれたという只中にも、私たちの主イエスは立っておられます。

詩篇に「どのようにして私は主の前を逃れることができようか。神は天にも黄泉にも私のそばにおられる。」(詩篇139:7~10)ということばがありますが、私達は、喜びの中にも、悲しみの中にも、どんなところにも主を見出すことができます。お会いできます。「インマヌエル。神我らと共にいます」これが私達の唯一の慰め、力です。キリスト者の歩みと教会のどちらの土台もキリストであり、そのご臨在です。

マリヤはイエスに、「主よ、もしここにいて下さったなら」と(:21のマルタのことばと同じく)言います。

「もし、こうであったなら…。」ああ、私たちは何とそのような言葉であきらめてしまうことでしょう。

主イエスの憤り・感動とは何だったのでしょうか。

人に定められた「死」に対する憤りではないでしょうか。イエスは、死を滅ぼし、永遠の命を与える為に、この地に来られました。イエスが私たちの為に勝利される最大の敵は、人の定めである「罪」であり「死」です。ある聖書学者は、この憤りは、兵士が闘いに赴く前の鼓舞のような感情だと言っています。ここに、「死」という敵に向かわれるイエスがおられます。

3、石を取り除ける私たち

「石を取りのけなさい」とイエスは言われます。「死んで4日もたって臭くなっています」…望みのないことばです。そこでイエスは言われます「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか。」

石を取りのけるのは、私達がすることです。イエスは、ご自分で石を取りのけ、ラザロをそこから出すこともお出来になったでしょう。しかし、イエスを信じて私たちがすることは、石を取りのける行動です。イエスのことばを信じて「踏み出す」のです。心と行動です。

私達の人生には、絶望的な悲しみの中に、大きな石が立ちふさがり、神に目を向けず、神に望みを持たず、ただ悲しみにくれている心があります。大きな石(信じない心、不信仰)があります。この状況は、今さら神に祈っても、求めてもどうにもならない、という不信仰です。時に、私たちの理性ではどうにもならないという私達の常識・経験です。ある面では、石を取りのける行為は、なんと非常識な行動かと思われます。

しかし!主は「石を取りのけなさい」と言われます。

4、神の栄光を与えるイエス

① 主イエスの祈りのことば

死との戦いにのぞまれ、祈られる主。

「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」。ラザロを生き返らすことは、主イエスの願いです。又、人々が信じる為にです。

② 大声で「ラザロよ、出て来なさい」と呼ばれます。 永遠の命を与えることのできるお方としての「しるし」です。

墓(死者)に向かって叫ぶことのおできになるお方、それは主イエスただおひとりです。これは、やがて、遠くない未来、イエスは私の名を呼んで、「死」からよみがえらせてくださいます。その根拠です。

イエスが、信じる者に永遠の命を与える「しるし」として、ラザロの出来事があります。

神の栄光とは、イエスのおこころ、イエスの御力の、私に対する、教会に対する、そして世界に対する実現です。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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