8月8日(日)礼拝説教全文

「行いと真実をもって愛する」 ヨハネの手紙Ⅰ 3:11~24

聖書協会共同訳 見出し 互いに愛し合いなさい(:11~18)

            神への信頼(:19~24)

神の子どもとしてのしるしのひとつは、「きょうだいを愛する」ことです。

教会にとって、宣教において、世に向かってのキリストを証しすることにおいて、「きょうだいを愛する」ことはとても大事なイエスの戒めであり、命令です。

・ 身近な者を愛する困難 私たちは意外と遠くの存在は愛することは容易かも知れません。しかし、互いに良く知る者であればあるほど、「愛する」という戒めを守り、従う事に困難を感じます。近しい人間関係において人は相手の良いところが蓄積せず、悪いところや不満が蓄積するからです。夫婦、親子、兄弟という、素を日常さらけ出している距離の近い関りの中で「愛する」ことに危機が生じます。

・ 多種多様な人々の集まる教会 性別、年齢、好み、一般的な価値観、それぞれの育った環境も全く異なる人々が教会には集まっています。好みや、趣味によって集まったサークルではありません。教会では政治の話はしないようにと言われますが、同じキリスト者でも考え方は異なります。又、教会の中では年齢は大きな壁となります。高齢の者も、若者も、自分たちの好む礼拝を行いたいと考えるからです。

・ 高い理想による失望 「クリスチャンなのに」ということばを聞きます。クリスチャンは、清く、偽りがなく、慈悲深いという、人格や倫理観において高いイメージを持たれがちです。それと違った印象を受ける言動がありますと、「愛する」ことに危機が生じます。

「きょうだいを愛する」ことは、キリスト者にとって、本来であれば最も自然な、麗しいものです。しかし、現実は、教会の中では、上記の意味では難しい課題であるかも知れません。自然とできているならば、教会のきょうだいの間に愛が溢れているならば、ヨハネは繰り返して「きょうだい・しまい、互いに愛し合っていますか」とイエスの戒めを告げ、教会に書き送る必要もなかったかも知れません。しかし、教会において「きょうだいを愛する」ことは、ヨハネの手紙第一のテーマであり、ヨハネの勧める最も大きな課題なのです。

「きょうだいを愛さない者」を非常に厳しい表現でヨハネは書きます。

「死の内にとどまっています(:14)」

「きょうだいを憎む者は人殺しです(:15)」

「永遠の命をとどめていません(:15)」

「きょうだいを憎む者は人殺しです」においては、カイン(兄)とアベル(弟)の例(創世記4:1~16)を示します。

「カインのようになってはいけません(:12)」

アベルは行いが正しく、カインは行いが悪かったとあります。カインの殺意のきっかけは嫉妬です。カインの捧げ物、捧げ方の何が悪かったのかは記されていませんが、アベルは自らの手で働いて得たものの中から、最も良い捧げ物を神に捧げました。

きょうだいを憎む者になってはいけません。「それは人殺しです」というのは、兄弟を憎んで殺人を犯した代表者カインを指しています。抑えていた憎しみは怒りとなり、カインとなります。

キリストの愛はそもそも「罪人を、敵をも愛する」愛です。好ましい存在、相性の良い存在、意見が合う存在であるから愛するのではないのです。イエスは言われました、「自分を愛してくれた人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか(手柄になるだろうか)。徴税人でも、同じことをしているではないか」(マタイ5:46)。これは「敵を愛しなさい」(聖書協会共同訳見出し)の中でイエスが言われていることばです。

もちろん「きょうだい」は敵ではありませんし、不法を行う者でもありません。

好ましいから愛するのではない。キリスト者は、イエスの愛をいただいてるから愛するのです。生理的な、感情的なもので左右されるものでも、ストレスを感じながら無理をするのでもありせん。イエスのおことば、イエスのおこころ、イエスに従うことを喜びとし、その故に愛するのです。自らの意思をもって、「イエスよ、あなたのおこころのゆえに愛します」と決断する時に、神は豊かな聖霊を注いで下さり、神の愛を与えて下さいます。これが、御子のうちにとどまるということです。

「御子は私たち(罪びと)のために命を捨てて下さいました。」罪深い私を愛して下さった、キリストの愛を深く受け取ることです。「それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。」きょうだいのために命を捨てる、ということばは非常にハードルの高いものかも知れません。「世の富を持ちながら、きょうだいが貧しく困っているのを見て憐みの心を閉ざす者があれば、どうして神の愛がその人の内にとどまっているでしょうか。」経済的に困っているきょうだいを助けることは具体的な勧めです。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」大事なのは、まず自分にできる行いと真実をもって愛することです。するかしないかに迷っている時には平安がありませんが、それを実行する時、私たちに真の平安があります。

* 聖書の示す3つの善い行い 施し 祈り 断食 (マタイ6:1~18)

* 神が私に思いを起こし、迷いの中で踏み出し、それを実行したときの平安。

神のみこころを行った時に知る、神の平安を経験してください。

あの時に、善い施し、助けをすれば良かったな…できなかったこと、しなかったことで、心に責められるところがあっても、自分の愛の足りなさを責めることはありません。善い行いをする機会、貧しいきょうだいを助ける機会はこれからも多くあります。

「きょうだいを愛する」ことにおいて、心に責められるところがなければ確信を持つことができます。

神の戒めとは、神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合う事です。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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