8月15日(日)礼拝説教全文
「イエスに向かっての二つの告白」 ヨハネの手紙Ⅰ 4:1~6、:13~15
聖書協会共同訳 見出し 真理の霊と惑わしの霊(:1~6)
私たちは、私たちの教会、信仰生活、宣教の働きは、「聖霊の働き」によって、そのお方の主導権、助けによって全てが成されることを知っています。全ての神の働きは、人の権勢や能力によらず、神の霊によることを知っています。しかし、霊の働きは目に見えませんし、以前にもお話ししたようにサタンでさえも天使に偽装して人を惑わすことを知っていますので、その霊を見分けなければなりません。
聖霊も悪霊も目に見えない霊です。どの霊も信じるのでなく、神から出た霊か、偽預言者から出た霊か見分けなればなりません。神を知らない世の人がこれを聞くと、いったい何を言っているのか、霊とは何か、頭がおかしくなったのではないか、と思われる類のものかも知れません。しかし、霊である神を知り、神に反逆する悪霊の働きがあることを聖書から知る私たち、目に見えない霊的な闘い、信仰の闘いがあることを経験する私たちにとって、霊を見分けることは重要です。日々の生活の中で起こっている目に見える困難や試練に、又、変わらない日常生活に当然私たちは目を向け、思い煩ったり悩んだりしますが、同時にその背後に目に見えない霊的な闘い、信仰と不信仰との闘いがあります。
1、イエスは人の子(:1~6) * ナザレのイエス
ヨハネの手紙の書かれた時代には、ギリシアのヘレニズム文化の影響が強く(新約聖書の原語も古典ギリシア語)、「グノーシス(ギリシア語)主義」というものがありました。「グノーシス」は知識という意味です。その根底には目に見えるもの、物質・肉体は悪、霊は善という考え方があります。「グノーシス」に強く影響されたキリスト者は、罪なき清いお方イエスは、悪である肉体をとってこの世に来られたのではないと主張しました。彼らは、イエスは霊的な存在が目に見える形で投影されたお方だと言います。弟子たちが出会ったイエスも、奇跡を行われたイエスも、復活されたイエスも、肉体を持たない霊的な存在であったと言います。
しかし、そのような間違った主張、異端に、ヨハネは「聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」とイエスのみ身体に触れた経験について手紙の冒頭から記しています。
イエスは処女マリヤから生まれ、神が人となって下さり、食事をされ、人々に触れ、十字架で肉を裂き、血を流し、痛みと苦しみを受けられました。どの福音書もイエスが人となられた神の御子であると証言しています。しかしグノーシス、人の知識は、全能の、永遠の、普遍の神が、有限な罪深い肉体をもって人となられたことに納得しません。イエスは霊としてこの世に現れたと言います。ある一面、非常に合理的です。
「イエスが肉体をもって人となれらたことを告白しない霊は、神から出ていない、反キリストです」とヨハネは言います。世の基準や人から出た哲学や思想によってイエスを認識し、主張するまことに賢い考え方であるかのようなものに耳を傾けてはなりません。知識に頼る人達はイエスというお方を聖書で読みますと、その誕生、奇跡、復活の出来事は、まるで、人が創作したおとぎ話、空想話、弟子が誇張して作った話のように聞こえます。神が人となられたという出来事は、「人の知識」によってそれを事実・真実として受け取ることは不可能です。知識ある人は、何と幼稚な、愚かな話をキリスト者は信じているのかと言うでしょう。又、論理的な人は、イエスの生涯は素晴らしいが奇跡はあり得ない、復活はあり得ないと考えます。
人の知識が主で、聖書のことばが従となります。人は理解できないものを受け入れません。しかし、神のなさることを人ははじめから終わりまで見極めることはできないのです。人が神のなさることを見極めることができるとするならば、それは既に神ではないからです。神の計り知れない大きな、偉大な恵み、力、約束をどうしたら私たちは受け取ることができるのでしょうか。信仰です。信じる他にありません。
中世ヨーロッパの神学者アンセルムスは「理解せんがために我信ず」ということばを残しました。理解できることは信ずる必要はない。又、信じる事によってのみ理解が深まるといった意味合いがあります。福音はまさに、信じる者に救いを与える神の力です。
世の知識人と呼ばれるのは一握りの人々です。キリストの福音は、当時の普通の人々、むしろ、学識とは縁遠い人々、学ぶことのできない貧しい人々、身分や階級の低い人々、未文化な多くの人々に受け入れられ、拡がっていきます。どうしてでしょう。イエスは言われています「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。」(マタイ11:25)
幼子のようになるとは、まさに、何も知らない者として、神のみことばに聞くということでしょう。へりくだって、素直に聞き、聖書のことばに耳を傾ける者はさいわいです。
私たちも聖書に向き合い、みことばに耳を傾ける時、自分の考え方、知識で理解できるものを選り分けたり、解釈するのでなく、真の教師である聖霊を求め、そのままをまず、受け取りましょう。⦅奴隷、ツアラート(既定の病)、セクシャルマイノリティ、離婚、児童婚、女性のかぶりもの等、当時の時代背景の中で命じられている戒めや教えもあります⦆
2、イエスは神の御子(:13~:15)
次回は「神は愛(聖書協会共同訳見出し)」をテーマに7節から21節を読みますが、その中の一部、13節から15節を本日の説教の繋がりの中で読みます。イエスをこのように告白するという繋がりです。
先程「イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。」(:2)という内容を読みました。ここでは、「誰でも、イエスを神の子と告白すれば、その人の内に神はとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」(:15)ということばです。ここにイエスに向かっての二つ目の告白があります。
「イエスは神の御子です。神の御子であって、神ではない」と主張し、「聖書のどこに、イエスは神であると書いてありますか」と言う人がいます。また、ある人はコロサイ人の手紙1:15を開いて「『御子は見えない神のかたちであり、すべてのものが造られる前に、最初に生まれた方です』ということばがあります。最初からおられた神ではなく、神から生まれたお方ではないですか」と言います。コロサイ人への手紙は、キリストが天地が造られる前からおられたことを記しています。イエスは神の被造物・造られたものではありません。
確かに、イエスはその生涯の中で、「わたしは神である。わたしに従って来なさい」とは一言も言われていません。徹頭徹尾「人」としてその生涯を父なる神に信頼されながら、従順に歩んでおられます。しかし、直接そのようには語られませんが、父なる神とイエスが一つであることを何度も話しておられます。
「私と父とは一つである。」(ヨハネ10:30)」「私を見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14:9)
「私は道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)「私は世の光である。」(ヨハネ8:12)
「私がそれである。あなたがたは人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」(マルコ14:62)
「トマスは答えて、『私の主、私の神よ』と言った。」(ヨハネ20:28)
イエスの変貌の記事(マタイ17:1~8)
イエスは洗礼者ヨハネでも、エリヤの再来でも、昔の力ある預言者のひとりでもありません。生ける神の御子キリストです。イエスは神ではないという霊は惑わしの霊です。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(ピリピ2:6 新共同訳)
「神の身分」(新共同訳)=「神の形」(口語訳、聖書協会共同訳)、「神の御姿」(新改訳2017)
「神の本性において等しい存在」(柳生訳)「キリストは神ご自身であられる方なのに」(尾山令仁訳)
「キリスト様は神様なのに、神様としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。かえって、その偉大な力と栄光を捨てて、奴隷の姿をとり、人間と同じになられました」(リビングバイブル)
私たちはどのように霊を見分けることができますか。
キリストが人であることを否定する霊、キリストが神であることを否定する霊は、偽りの霊です。
イエスは私たちの崇めるべき神です。
主に向かって告白しましょう。イエスは生ける神の御子、我らの救い主!
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