8月22日(日)礼拝説教全文
「神は愛です」 ヨハネの手紙Ⅰ 4:7~21
聖書協会共同訳 見出し 神は愛
聖書に記されている神はどのようなお方ですか?最も短い言葉で言えば、「神は愛」です。他にも、神は聖なるお方です、義なるお方です、全能のお方です、等、神というお方を様々な言葉で聖書を通して表すことができますが、ヨハネは何よりも、第一に「神は愛」であることを伝えています。
日本人の神観は、〇〇〇を叶えて下さる神という意識が強いのかと思います。無病息災、商売繁盛、学業成就、交通安全等、〇〇〇にご利益のある神として、その働きは分業しています。それぞれの願いに合わせてお詣りします。又、先祖崇拝の仏教文化の中で、仏様や先祖が自分を、家族、一族を護ってくれていると信じて、供養し、仏壇やお墓の前で手を合わせます。そういう意味では日本人は、聖書にある「神は愛」という神についての理解は持っていないか、希薄であるかと思います。実際、キリスト者になる前の私たちも、神がどのようなお方であるかは知りませんでした。「神は愛」という神の理解、認識はほとんどなかったことでしょう。
本日の聖書箇所で、神はどのように私たちを愛されたと言っているでしょうか。
「神は独り子を世にお遣わしになりました。この方によって、私たちが生きるようになりました」 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました」「ここに愛があります」と教えています。
イエスの愛
以前にヨハネの手紙第一、三章において、似た言葉「それによって私たちは愛を知りました(3:16)」という内容を読みました。何によって愛を知ったのかというと、「御子(主イエス・キリスト)は私たちのために命を捨ててくださいました(3:16)」とあります。ヨハネは、イエスが、私たちが罪によって滅んでしまうことのないように、その救いの為に、贖い(身代わり)となって十字架で血を流し、苦しみを受けられ、命を捨てて下さったことを伝えています。何故、イエスはこのような苦難の道を十字架の死に至るまで歩み抜かれたのか。その動機は、私たちを愛するが故です。ヨハネは心から師であるイエスを慕い、従って来ました。そして、このお方が自分の罪の為にも命を捨てて下さったことを、その十字架を目の前で見て、受け止めています。
又、「私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です」(2:1~2)。十字架の出来事のみか、イエスが今も、私たちの罪の執り成し手として、ご自身の血(命)という代価を携え、あきらめず、弁護し続けて下さっていることを伝えています。どうしてイエスは私たちの為にそこまでされるのか。その動機は、私たちを愛するが故です。ヨハネは「神が愛である」という圧倒的な経験を、イエス・キリストの生涯全てからいただいています。
そして私たちも、何にも優って、「神が愛である」という真実を知るのは、イエス・キリストというお方を通してです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)。イエスは事実私たちの為に命を捨ててくださいました。命がけの、極みまでの、最も大きな愛をイエスは示されました。
「愛する人たち、互いに愛し合いましょう」と繰り返しヨハネは、教会の兄弟姉妹に語り掛けています。なぜなら「神は愛だからです」と告げます。
御父の愛
三章の冒頭でも、「御父がどれほどの愛を私たちに与えて下さったか、考えてみなさい。」(3:1)とありましたが、イエスの愛が、ご自身の命を私たちの救いの為に捨てて下さった愛であるとするならば、父なる神の愛とは、「御子を世の救い主としてお遣わしになった」「御子を私たちの罪の宥めの献げ物としてお遣わしになった」愛です。有名なヨハネによる福音書3:16、17では、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とあります。
自分の最も大事な愛する者を、他者の為に、背を向ける罪人の為に犠牲にすることがあるでしょうか(罪人は私であり、あなたのことですが)。父なる神にとって、私たちがどれほどの価値があるのでしょうか。イエスが私たち罪人の為に、ご自身の命を捧げて下さったという愛は驚くべきもの(Amazing grace!)であります。とすれば御父の愛は、ご自身の独り子を私たちに下さったという驚くべきものであります。
あなたの人生で、世の何を得るに優って、イエスから、命を、永遠の命を受け取って下さい。そして、何を得るに優って、父なる神から、御子を受け取って下さい。
私たちが信じている父、御子、御霊の神は、三にして一のお方です。三位一体を人の言葉で、現にある目に見える存在の関係で言い表し切ることはできないでしょう。しかし、ただはっきりとわかるのは、神ご自身そのお方が「愛である」ということです。対象、向かい合う存在、関係がなければ「愛」は成立しません。神は、神ご自身が「愛」なのです。神のかたちとは「愛」です。そして愛は神から出ています。神は神のかたちに人を造られ、すなわち男と女とに造られました。男と女は、互いに向き合う存在です。神は男アダムのあばら骨をとって、女エバを造られました。頭でもなく、足でもなく、あばら骨から女を神がお造りになったのは、対等の向き合う存在としてだと解釈する人が多いですが、まさにその通りだと思います。神のかたちは「愛」です。そして(しかし)、罪によってその「愛」の関係は壊れました。
聖霊の愛
「神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました」(:13)。聖霊は、神から出た霊、神の霊、イエスの御霊、真理の霊、と様々な表現で聖書の中で語られています。このお方は、イエスを啓示し、知らせてくださるお方です。神の愛も、イエスの愛も、聖霊によらなければ、私たちは何一つ知ることができません。今は聖霊の時代です。聖霊がおこころのままに力強く働いておられる時代です。私たちが神の内にとどまることも、神が私たちの内にとどまってくださることも、イエスを生ける神の御子キリストと告白することも、聖霊が実現してくださいます。前にもお話ししましたが、父なる神を示すのは御子イエスであり、御子イエスを示すのは聖霊です。父は御子を遣わし、聖霊は御子が父なる神に願って遣わされた私たちの助け主、慰め主です。
聖霊によって、私たちは父なる神の愛と、御子イエス・キリストの愛を受け取ることができます。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)
私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。聖霊がこの豊かな交わりに生きるように、私たちを運び、導いて下さいます。
「愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出します。」(18)
人の愛は罪によって壊れています。マタイ24:3~14で、イエスは「世の終わりの徴」について語っておられますが、様々な試練の最後に「多くの人の愛が冷える(:12)」と言われています。
男女の愛(エロス)も、親子・兄弟の家族の愛(ストルゲー)も、友としての愛(フィレオ)も、神から出ていますが、完全なものではありません。私たちの愛と、神の愛とは何と違うものでしょう。完全な愛とは、神の愛(アガペー)です。イエスを人生に迎えて、イエスの内に、神の内にとどまって、神の愛を知って下さい。世界中の全ての人が、互いを尊び、大切にし、真実に愛し合うことができれば、家庭内の争いも、世界中の戦争の問題も解決することでしょう。神のこどもは平和を造り出します。
私たちは何を恐れるのでしょうか。聖書協会共同訳見出しに、本日の「神は愛」とは少し違いますが、「神の愛」という見出しの箇所があります。(ローマ8:31~39 特に:35節の項目)神の愛から私たちを引き離すことのできるものは何一つありません。完全な愛は恐れを締め出すのです。キリストの愛は、私たちの人生に起こって来るどんな試練、苦しみにも打ち勝つ神の力です。
私たちの人生の大敵「恐れ」に打ち勝つ方法は、「神の愛」を受け取ることです。
最後に、(:19~21)再び「きょうだい愛」についてヨハネは書きます。神を愛する者、神の愛を受けているという者は、「きょうだいを愛すべきです」と、ここでは「べきです」と戒めとして強く命じています。神を愛することと、きょうだいを愛することとはひとつです。きょうだいを愛することで、神を愛していることがわかりまず。そして神を愛している者は、きょうだいを愛します。
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