8月29日(日)礼拝説教全文
「信仰による勝利」 ヨハネの手紙Ⅰ 5:1~12
聖書協会共同訳 見出し 世に打ち勝つ信仰(:1~5)
イエス・キリストについての証し(:6~12)
礼拝でヨハネの手紙第一を「イエスが愛したように、きょうだいを愛する」というテーマで読んでまいりましたが、最終章の5章に入ります。
1、信仰による勝利
「世」に打ち勝つ勝利は、イエスを神の御子と信じる信仰です。
「世」とは何でしょうか。
私たちは「世」に生きています。「世」と切り離された生活はありません。聖書が「世」という言葉を使います時に、世界という意味で「世」を使う時もありますが、ほとんどは、神に背を向ける罪の中にある世界、不信仰な、真の神に無関心な、自己中心な私利私欲の世界を示しています。「世も世にあるものも、愛してはなりません。…すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活は、父から出たものでなく、世から出たものです。」(第一ヨハネ2:15~16)
「世」にある限り、このような執着から解き放たれることはありません。罪の誘惑は常にあり、世の権力は圧力を与え、日々の生活には、コロナ、病気、貧しさ、人間関係の圧力、争い、様々な試練が打ち寄せて来ます。そして、ヨハネは、内側からも教会や信仰生活の中に「世」が入り込んで来て、反キリスト、偽教師が、私たちを高慢へと誘う世の知識、異端、曲がった教えへと惑わすと言います。そして「世」の力には、人が決して抗う事のできない、老い、死の定めがあります。
世にあって、生きている限り、私たちには悩みや苦しみがあります。キリスト者だから悩みがなくなるというのではありません。
しかし、聖書は、イエス・キリストが神の御子であると信じる信仰によって、私たちは世に勝利すると語っています。努力や、修練、訓練、経験や、鼻から息する誰かによるのでもなく、世の権力や富でもない。イエスを信じる信仰だと言います。「体の鍛錬も多少は役に立ちますが、敬虔は、今と来るべき時の命を約束するので、すべてに有益だからです。」(第一テモテ4:8)努力や鍛錬は良いものです。お金も必要です。医療や弁護士やカウンセラーに相談するのも良い事です。しかし、「世」に打ち勝つのは信仰です。信仰がなくては、何を持っていたとしても神に喜ばれることはありません。
「世」に打ち勝つ信仰とは、イエスがキリスト(聖書の約束によって待ち望まれていた救い主)であると信じる、イエスが神の御子であると信じる信仰であります。キリストのからだである教会で主に仕える。聖書を読み、その約束を信じる。祈りの中で、賛美の中で、信仰告白の中で、あなたを信じますと告白する。そして、神を愛し、その戒めを守ることです。イエスを信じるとは、心と日々の生活、行動です。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(第一ヨハネ3:18)
特にここで言う「神の戒めを守ること」とは、「きょうだいを愛すること」です。
信仰によって「世」に打ち勝つ世界とは、まさに神の国です。私たちは信仰の手を伸ばして、神の国をこの「世」に来たらせる神の子ども、神の民です。「御国が来ますように」「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ります。
2、神の証し
イエスを信じる信仰によって、私たちは「世」に勝利します。勝利ある人生の要は、日々、私たちの罪の贖いの為に十字架で命を捨てて下さった、神の御子、救い主イエスを持つことです。このお方を私たちが、私たちの心に、人生に、お迎えすることです。
私たちは御子についてなされた「神の証し」を、自分の内に持っています。
私たちの内にある「神の証し」とは何でしょうか。
3つの神の証しがあります。水と血と霊です。
ヨハネが他の弟子たちと違うのは、彼がイエスの十字架をすぐ目の前に見た人であることです。
ヨハネは、イエス・キリストを水と血を通って来られた方と証言します。
「水」はヨハネによる福音書のKEY WORDのひとつです。
元々ヨハネは、同じ十二弟子の一人、アンデレと共にバプテスマのヨハネの弟子でしたが、バプテスマのヨハネに証しされてイエスに従うようになりました。バプテスマのヨハネの手伝いをしていた時に、イエスがバプテスマを受けておられたのも目撃していたかもしれません(ヨハネ1:19~34)。
又、ヨハネによる福音書のみ、ニコデモという最高法院の議員のひとりが夜イエスを尋ねてきた時の対話を記しています。(ヨハネ3:1~15)ここでは「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」とイエスが言われています。
ヨハネは「水」について命の水、渇くことのない水、と語り、何度も永遠の命について、イエスが与える水について触れています。そして、イエスの命じられたように、イエスを信じる者にバプテスマを授けて来ました。
「水」は新生の証しです。新生のしるしとして、証しとして私たちは「水」で洗礼を受けます。
救いの経験は、神の証しです。どのようにして私たちは生まれたのかわかりません。しかし、新しく生まれたことはわかります。肉から生まれたように、私たちは新しく霊から生まれた者です。
私たちのキリストの証人にとって、大事なのは「救いの証し」です。どのようにして神の救いを受けたのか。何度も何度も、救いの証しを私たちは他者に伝えます。黙っているのではない、伝える事が私の、聞く者の祝福となります。救いの証しは、私たちを初めの愛に立ち返らせます。どのような中から、私は救われたのか、語ることによって思い起こすべきです。それは私たちの内にある「神の証し」です。
「血」はヨハネにとっての何にも代えがたい証しです。
ヨハネの手紙を読んで、何度もそれに触れてきましたが、ヨハネはイエスの十字架をすぐ目の前で、その一部始終を目撃したキリストの弟子です。
過越しの祭りの只中にあって、又、最後の晩餐を経て、目の前で愛する師イエスが、肉体を裂き、血を流し、苦しみを受けておられたお姿を6時間、ヨハネはどのように見ていたのでしょうか。明確な意味は、復活された主に出会い、ペンテコステの日に聖霊を受けた時に知ったでありましょうが、まさに、この血によって、私の全ての罪は赦されたことを知ったでしょう。御子は私たちのために命を捨てて下さった。それによって愛を知りました。神の愛であり、イエスの愛です。私の罪がイエスの血によって赦され、清められたように、これから後、イエスの十字架の贖いの血を信じて受ける者は、誰でもその罪が清められることを知ったでしょう。
「聖餐」を通して、毎回、毎回、イエスを信じる者たちは、イエスの裂かれたお体、流された血の意味を深く味わい知るでしょう。「血」は私たちが内に持っている、イエスが、私の神の御子キリストである「神の証し」です。
そして「聖霊」、神の霊、イエスの御霊、「神の証し」を私たちは内に持っています。
私たちは「神の証し」、水、血、霊を内に持っています。全てのキリスト者は持っています。持っている故に、それらを確信する故に、イエスを「あなたこそ、生ける神の御子キリストです」と告白します。
「世」に勝つ者とは誰でしょうか。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
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