8月1日(日)礼拝説教全文
「私たちは神の子どもです」 ヨハネの手紙Ⅰ 3:1~10
神の子どもであることを自覚し、それにふさわしく生きる
聖書協会共同訳 見出し 神の子どもたち(2:28~3:10)
「事実、私たちは神の子どもなのです」(:!)
私たちは、「今すでに、神の子どもとされている」(:2)ことを知るべきです。
父なる神のどれほどの大きな愛によって、私たちが神の子どもとされているかを知るべきです。
* 父なる神の愛は、イエスの話された「いなくなった息子のたとえ」と呼ばれるところ(ルカ15:11~32)にわかりやすく語られています。
神の子どもとされた私たちは、そこから新しい生き方がスタートしています。
「子どもとされた」という表現は、以前はそうではなかったが、今はそうなったという事実であり、又、親と子の関係に入れられたという、養子縁組されたようなものです。
全く違った環境で育ってきた者が、別の親(父)の許に、家族の中に入れられるということは、すぐにその家庭に馴染むものではないかも知れません。過去の素(もと、生まれつき)の部分は、すぐに変わらないものがあるかも知れません。しかし、新しい天のお父さん、御子イエス・キリスト、助け主なる聖霊との交わり、そして、キリストにある兄弟姉妹、聖徒の交わりの中に入れられた者は自然に生き方が、変えられていきます。それは当然の結果だと思います。
仮に、私たちがどこかに引っ越して、別の教会で新しい信仰生活を送ろうとした時、教会での交わりは、世界のどこにあっても同じ御父、御子イエス・キリスト、助け主なる聖霊との交わりですが、兄弟姉妹との関りにおいてはすぐに馴染めないこともあるかも知れません。しかし、その教会生活を通して、私たちは日々変えられていきます。 * 例;「天の父なる神様、御子イエス・キリスト様、聖霊様、三位一体の神をひれ伏して礼拝します」という祈り(勝田台キリスト教会独特なものだとは思いますが、交わりの中で、染み込んでいくものがあります)
神と神の家族との生活の中で、神の子どもたちは変えられていきます。神の子どもはどのようなものに変えられるのでしょうか。どのように変わったかはすぐにはわからないものですが、後に神とお会いする時(ありのままに神ご自身を見る時)には、私たちは神に似たものとなっていることがわかるといいます。神の子どもたちは、父なる神との交わり、神の戒めに生きることによって、神に似た者へと変えられます。もっと言えば、キリストに似た者へと変えられます。聖化とは、一言で言うと、キリストに似た者へと変えられることです。私たちの望みは、神ご自身に近づいて(礼拝)、神の前に立ち、座し、少しでも、少しでもキリストに似た者へと私自身を造り変えていただくことです。いけにえをささげることに優って、自分自身を神にお献げし、陶器師であられるその御手の中に陥り、新しく造られることこそが重要です。
御子の内にとどまっている人の歩み、それは清い生活であり、罪に陥らず、不法を犯さない生活であり、義を行う生活です。
私たちの日々の関心は、清く生きることでしょうか。罪を犯さないように生きることでしょうか。義を行うことでしょうか。私たちの日常は、そのような関心とは遠く離れた生活を送っているような気がします。
健康の心配、経済の心配、日々のなすべき仕事の課題、どのように楽しめばよいだろうかとの余暇への関心。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、等の思い煩い(マタイ6:25~34)。肉の欲、目の欲、見栄を張った生活、全て世にあるもの(1ヨハネ2;16)である気がします。
「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:6~9)
どのような者が幸いな者であるのか、私たちは山上の説教に耳を傾けるべきです。
清く生きる、罪を犯さず義を行う。これは神の子どもにふさわしいことです。
第一ヨハネの手紙の2章で、私たちは「罪を犯さないようになるためです」というみことばを聞きました。罪を犯さない生活を人は送ることができるのか?と説教の中で自らに問いました。
教会によっては、牧師によっては、クリスチャンは罪を犯すことがなくなる、過ちを犯すことがなくなる、不法を行うことがなくなるのだ、と言う人もいるかも知れませんが、それは自らや教会の現実から目を背けている人であろうと思います。
私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、血潮によって、全ての罪が赦され、清められ、取り除かれ、全身は清いのです。既に義とされ、救われているのです。神が清いと宣言してくださるのです。これは神の愛による一方的な恵みです。しかし、誘惑に脆く、感情や言葉が制御できず、世の権力の前に力なく弱い者です。それは、世のあらゆる苦しみをお受け下さった主イエスが、誰よりもご存知です。それゆえに、憐れみに満ちたイエスは、弁護者として今もあきらめず弁護し、とりなして下さっています。
清くなければ神の子どもにはなれない、罪を犯す者は神の子どもではない、神の義を行わない者は神の子ではない、とヨハネは言っているのでしょうか。もしそうであれば、誰も神の子どもでもなく、神の子どもになれません。大事なのは、あなたがたは既に、神の子どもとされているのです、という事実を、イエスの真実と神の測り知れない愛によって受け止めることです。御子イエスの内にとどまり続けることです。
神の御子イエスには罪がありません。イエスは、私たちの罪を取り除くために来られました。また、悪魔の働きを滅ぼすために来られました。この御子イエスの内にとどまり続けることが、罪を犯さない道、清く生きる道、義を行う道なのです。
神の国と神の義を追い求めましょう。
ふと、立ち止まって自らを省み、世にあるものばかりを求めている我に気づきましょう。そして、神を見上げて「お父さん」と呼び、私たちが神の子どもと呼ばれるために、どんなに大きな愛をお与え下さったかを考えてみましょう。「神の種」(憐れに満ちた神のみことば)を内に留めましょう。
罪を犯す者、不法を行う者、義を行わない者は、神から出た者ではありません。自分を清く保つ者、義を行う者は神の子どもです。そして、最後に「きょうだいを愛さない者」も、同様に神から出た者でない、と続きます。
ヨハネの手紙の中心テーマとして、何度も繰り返し、このことを学びますが、「きょうだいを愛する」は、キリスト者にとって特別な、大事な戒めです。キリスト者でない者に、聖書は「きょうだいを愛せ」とは命じません。キリストの愛を知っている者同士・仲間に対する戒めです。
「これによって神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします」(:10)という言葉は非常に厳しい内容です。「きょうだいを愛さない者も、同様に、悪魔の子どもだ」と言われている感じがします。「きょうだいを愛する」こと、互いにキリストの愛をもって愛し合うこと、常にイエスが真ん中におられて兄弟姉妹の交わりを持つことは、目に見える教会が目に見えないキリストを顕します。
先週もお話ししましたが、聖書にあるキリストの初代の教会も、様々な不一致がありました。しかし、私たちも今一度、私たちの勝田台キリスト教会と、教会生活と、兄弟姉妹との交わりが、私にとってどのようなものであるかを、聖書のことばに耳を傾けながら、考えてみましょう。
尚も、教会員一同に聖霊が注がれ、イエスの愛に満たされ、それぞれがキリストのからだの肢体として無くてはならない存在として、「きょうだいを愛する」戒めが実現していきますように。私たち一同が、皆で、キリストの神の愛があふれた教会を建て上げていきましょう。
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