9月12日(日)礼拝説教全文
「真理の内を歩む」 ヨハネの手紙Ⅱ 1~13
聖書協会共同訳 真理と愛(;4~11)
ヨハネの手紙第一を読んできましたが、ヨハネの手紙には第二、第三があります。ある聖書学者は、ヨハネの第二、第三の手紙は、イエスの弟子のヨハネが書いたのではないと言う人もいますが、私たちはヨハネ第一の手紙を読み終えているので、続けて読むと、まさにこの手紙を書いた「長老」はヨハネであることがわかります。第一を読み終えましたので、第二、第三を読むことは、予備知識も身に着いているので、とても良いかと思います。短い手紙なので、なかなか礼拝で取り上げて読む機会もないかと思います。第二、第三、どちらも章はなく、1ページの内容となります。
この手紙の宛先は、「選ばれた婦人」、教会で善い働きを先頭に立って行う婦人とその子供たち、と書かれています。特に「婦人よ」(:5)と個人的な名前は書かれていませんが、教会の働きが、今日もそうでありますが、女性たちによって力強くなされていたことがわかります。
男性がそうではないというのではないですが、教会での女性の働きは、教会にとってとても大きなものです。
* パウロのヨーロッパ伝道最初の地フィリピでは、川辺に集まっていた女たち(使徒16:13)に福音が語られ、最初の実は、紫布の商人リディアという女性でした。(使徒16:14)
「あなたがたの子どもたちの中に、私たちが御父から受けた戒めのとおりに、真理の内に歩んでいる人がいるのを見て、私はとても喜んでいます。(:4)」とあります。善い働きをしている婦人の子どもたちが、真理(信仰)をしっかりと継承していることがわかります。
* パウロの同労者であるテモテは、「祖母ロイスと母エウニケの偽りのない信仰が、孫であり息子であるテモテにも宿っている。」(第二テモテ1:5)とあるように、祖母と母の信仰が、テモテというパウロの右腕となるような働き人、信仰者を生み出したことがわかります。
父親は厳しさ、母親は優しさ、と父性、母性と性別で分ける事はできませんが(それこそ男女差別のようになってしまいますが)、お腹を痛めた子供、自分の分身の様な存在の子供に対する母親の愛情は、特別なものがあるかと思います。戦争中、死の直前に多くの兵士が最後に叫んだのは「天皇陛下万斉」ではなく、「お母さん」であったと聞いたことがあります。「父の日」は「母の日」にとって付けたような印象もあります。
ヨハネが教会の婦人たちにお願いしたい事とは何でしょうか。「互いに愛し合うことです」。それは新しい戒めではなく、初めから持っていた、聞いていた戒めです。「互いに愛し合う」ことは、御父の戒めであり、イエスが戒めの中で最も大事なものだと言われた戒めです。
この短い手紙の中には、「愛」が5回、そして、「真理」が7回出て来ます。
聖書協会共同訳の表題も「真理と愛」です。
ここでいう、婦人たちに対する「互いに愛する」という戒めの内容は、子供たちが「真理の内を歩む」ように愛することです。
若い者は、違った教え(異端)に影響されやすい人たちです。若い人は新しいもの、新しい知識を好み、それに適応します。インターネット、スマホ、SNS、しかりです。かつて世間を騒がした「オウム真理教」の信者たちは若く、とても頭脳明晰の人達でした。新興宗教、キリスト教の異端の特徴は、若い人を勧誘します。7節からは、ヨハネの手紙第一でもみてきましたが、「キリストは肉体をとって来られたのではない」と主張する考えは、ヨーロッパ、ヘレニズム文化下での合理的なグノーシス(知識)の考え方の影響がありました。その扇動者、偽教師たちは、多くの若者を教会から連れ出したのかも知れません。若者は新しい教え、合理的な知識に心惹かれていきます。「良く気をつけず」(:8)「先走って」(:9)しまいやすいのです。
婦人たちよ、あなたがた自身も、共に家に住む子供たちも、そのような教えや影響を受けてはいけません。誤った教えの人達を家に入れてはなりません。挨拶もしてはなりません。ヨハネは彼らと席を共にすることを厳しく禁じ、警告しています。
「世」も、世と悪者からくる「異端」も真理の内にありません。的外れ(ハマルティア=罪)な歩みです。
「真理」の反語「誤謬(間違い、誤り)」。全ての人は罪のゆえに的外れな歩みをしています。
この世の与える考え方、生き方も、キリストが肉体をもって人となられたことを否定する異端の考え方も、「真理」ではありません。「真理」とは、私たちの救いの為に、人となられた神の御子イエス・キリストご自身です。そして、真理の内を歩むとは、真理であるイエスを信じ、神の愛の中、神の戒めの中を、聖霊の助けによって歩む事です。ここに人が人としての本来の、神に造られた者としての健全な、まっすぐな、父のみもとへ行く生き方、道があり、この生き方、道へと軌道修正、回復して下さるのがイエス・キリストです。
罪を悔い改めて神に立ち返ることを、「回心」、「ターニングポイント」と言います。私たちキリスト者は「真理の内を歩む」者へと、イエス・キリストによって向きを変えられた者達です。
互いに愛するとは、何でも赦し、何でも許容し、何でも妥協することではありません。「この世に倣ってはなりません。妥協してはなりません」(ローマ12:2)。子供たちに「真理の内を歩む」ことを見せ、教える事が子供を愛することです。真理のない愛は、偏愛・溺愛であり、愛のない真理は冷え切ったものです。
「真理の内を歩むように」。私も、そして子供たちもそのように生きるために、イエスの愛、神の愛をもって互いに愛するのです。信仰者であるならば、子供たちに「真理の内を歩んでほしい」と何よりも願うでしょう。信仰者の子供であるなら、親は何よりもそう願っていることを知るべきです。親に対しても子供に対しても、そして祖父母に対しても、孫に対してもそうです。「真理の内を歩んでほしい」と願い、そのように愛するキリスト者でありたい。
* 森山諭牧師、日本イエス・キリスト教団の牧師、日本におけるキリスト教の異端の課題に向き合ってきた人。エホバの証人、モルモン教、統一教会、特に統一教会の信者の救出活動をされてきた先生。
子どもを統一教会から救出する親の姿勢は、洗脳されている子供をとことん愛する事です。そしてその愛は、真理の内を歩む愛である必要があります。揺るがない真理を握って、間違った教えに立ち向かう事です。
それは「世」に倣って歩む者に対しても同じことが言えます。
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