10月17日(日)礼拝説教全文

「モーセを遣わした神の名」 出エジプト記3:13~22

聖書協会共同訳見出し 神の名

日本には神道があり、仏教があり、様々な形あるものが祀られています。八百万の神々の地であることがわかります。新約聖書の背景にあるヘレニズム、ギリシア文化においてもギリシアやローマの神々があり、同じく八百万の神々が背景にあります(使徒言行録17:22~23)。出エジプト記に記されている古代のエジプトにおいても多くの神々があり、それぞれに名前が付けられ信奉されていました。

その代表的なものは、太陽神ラー、豊穣の神イシス、ハヤブサの神格化ホルスです。  (*高畑勲・宮崎駿 太陽の王子ホルス) 

1、神の名について(:13~14)

「私はいる」

モーセは、イスラエルの民に自分が何という名のお方から遣わされたと告げればよいか、と神に尋ねます。(あなたの名を)「何と彼らに言いましょうか。」

神の名についての問いです。

神はモーセに言われます。「私はいる、という者である」とお答えになります。

「私はいる」はヘブル語では、「エヘイエ(ehye)・アシェル エヘイエ」と発音します。 

「私はいる あなたと共に」(3:12)「エヘイエ インマク」と同じ発音となります。(インマクは、インマヌ・エル「神が私たちと共におられる」の「共におられる」の派生語)

14節について私たちはこれまで、「わたしはある」「わたしは有って有るもの」と耳にしていましたが、聖書協会共同訳は、前の12節の「私はあなたと共にいる」に倣って「私はいる」と訳しています。

七十人訳ギリシア語旧約聖書「エゴー・エイミ・ホ・オーン」すなわち、「私は存在するものである(わたしは有る)」は、神の存在の絶対性を示すことばです。英語ですと、I am who I am. 又は、 I am that I am.となります。

神の存在の絶対性・永遠性・自存性・唯一性、様々な解釈がありますけれども、「聖」という神の本質のことばでこれを表現する事ができるかと思います。(「聖)なる神にしかできない言葉であろうかと思います。)

何にも依存されず、完全に自立されたお方。人や全ての存在を超越されているお方 全知・全能・普遍・永遠者です。

「私は私である」絶対的な宣言のことば。この世には絶対的なものは存在しません。聖書の神は、はじめであり、終わりであり、決して揺るぐことのない、変わることのない真理であり、「Iam that I am.」です。この世のいかなるものも、揺れ動かないもの、変わらないもの、絶対的な信頼に値するものはありません。しかし、このお方は、「私はいる」、絶対的信頼を受けるに値するお方です。

「私はいる」と言われる神に従う者は滅びる事がありません。この世のどんな波風も、暗闇も、たとえ死が襲ってきても、このお方に信頼する者は失われません。流されません。

新約聖書においては、イエスがご自身について語られる時に、この「エゴー・エイミ」をもって宣言しておられます。「私は道であり、真理であり、命である。」「私は世の光である。」「私はよみがえりであり命である。」等。

当時、イエスを攻撃した宗教的指導者たちは、「あの者は、自分を神と等しい者として、神を汚している」と非難しました。彼らの非難の言葉の通り、実にイエスは神と等しいお方です。

「アブラハム、イサク、ヤコブの神」

神はご自分の名をさらに、重ねて示されました。モーセに「イスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたがたのところへ遣わされました。』

これこそ、とこしえに私の名、これこそ、代々に私の呼び名。」

『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』とご自身について宣言されています。そして、

とこしえに、代々にわたる 私の呼び名である、と神は言われています。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そして十二の部族についての「ものがたり(出来事)」は子供たちに語り継がれてきたに違いありません。ヘブライ人(ヘブル語を語る民族)、イスラエル人(アブラハム、イサク、そしてヤコブの子孫)は、彼らの祖先が仕えて来た神を知っていたでしょう。しかし、エジプトでの400年の生活の中で、アブラハムの契約は覚えていたかも知れませんが、律法も無かった彼らは、先祖が仕えて来た神をどのように信じ、従っていたのでしょうか。

神は彼らの信仰を呼び覚まされます。「(私は)あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」「あなたがたをエジプトから救い出す。」

エジプトに囚われているイスラエルの人々に、先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神のもとに立ち返らせるために愛と力ある御手をもって臨まれる神。

私たちは、聖書の神を信じる信仰の先達者たち、私たちを教導して下さった牧師や宣教師、そして、クリスチャンの両親が信じて仕えて来た、同じお方を信じ、ただこのお方に従う民、者であることを見失ってはなりません。

2、モーセのすべきことについての主のことば

① エジプトにいるイスラエルの長老たちを集め、彼らに「神が、あなたがたをエジプトから救出し、カナンの地に導き上られる」ことを告げること。

② イスラエルの長老と共にエジプト王ファラオのもとに行き「ヘブライ人をエジプトから去らせ、ヘブライ人の神にいけにえを献げさせよ」と王に告げること。

「しかし、あなた方の言葉を聞いてもエジプトの王はあなたがたを行かせようとしないであろう。それゆえ、神である私・主が手を伸ばし、強い手をもって、驚くべき業によってエジプトを打つ。ついに王はイスラエルの人々を去らせる。そしてあなたがたがエジプトを出る時には、多くの財を奪い取ってそこから去る。」

主の御手は強く、その御手を私たちの為に伸ばし、私たちを救って下さいます。

「(イエス・キリストの)父なる神」

イエスが教えられた、神の名(呼び名)。

イエスは、神に向かって祈る時には「父よ(お父さん)」と呼びなさいと言われました。(ルカ11:2)イエスご自身も、「アバ、父よ。」とその名を呼ばれました。

今、私たちは神様を「アブラハム、イサク、ヤコブの神よ」とは祈りませんが、このお方を「イエス・キリストの父なる神様」「天におられる私たちの父よ」と祈ります。

「お父さん」と神の名を呼ぶ私たちは、神の子どもたちです。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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