10月24日(日)礼拝説教全文
「力あることばとわざ」 出エジプト記4:1~17
聖書協会共同訳見出し 主が現れたしるし
モーセがエジプトに遣わされて、エジプトで奴隷となっているヘブライ人を解放する為に必要なものは、主の「力あることばとわざ」です。神はモーセに「わたしはあなたと共にいる」というしるし(保証)をお与えになって、エジプトへ遣わされます。
モーセの心配の第一は、イスラエルの人々が、「主はあなたに現れなかった」と言ってモーセを否定し、拒否するのではないかということでした。40年前にも、彼はヘブライ人の同胞を救おうとしましたが、それは彼らに受け入れられず、理解されませんでした。モーセは自分が再び、同胞の人々に拒否される事を恐れていました。
主は、ご自分がモーセを遣わしたことのしるし(証拠)として、彼の持っていた羊飼いの杖を「地に投げなさい」と言われます。彼が杖を投げると、それは蛇に変わります。そしてモーセが蛇をつかむと杖に戻ります。これを以ってモーセに「先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が現れたしるし」としなさいと語られます。
更に主は、このしるしによってもイスラエルの人々が信じないならば、と、「手を懐に入れなさい」と言われます。モーセが懐に手を入れて出すと、手はツアラトに冒されて真っ白になっています。「手を懐に戻しなさい。」再び懐に手を入れて、出してみると元に戻っています。
そして、これらの二つのしるしでもイスラエルの人々が信じなかったら、ナイル川の水を汲んで、地に注ぎなさい、そうすれば水は血に変わる、と言われました。
神は驚くべき業を行ってエジプトを打たれる(3:20)、まことに主がモーセを(エジプトにいる)イスラエルの人々に遣わされる事を保証されます。神が私たちと共におられる、それは私たちの人生においても主は驚くべきみわざをもって臨んで下さるということです。主イエスはそのご生涯で多くのみわざをもって、ご自身が神の御子であることをお示しになりました。私たちの神は、しるし(奇跡)を行われる神です。あなたは信じますか。神のみわざは私たちの人生に力強く現されます。なぜなら、力強い、生ける主が私たちと共におられるからです。
* 日本人である私たちが、聖書の神を私の神、救い主と信じて生きていることが何にも優る奇跡だと思います。以前、板橋の教会の礼拝で、小さな会堂に20名ほどの高齢の方々が集っている礼拝をしながら、このように2000年以上も前に遠くの国で書かれた聖書の神を信じて、救いを受けてイエス・キリストに従っている人々がいる、という事実を見て、これは神の奇跡だと何度も思った事があります。神によって救われて礼拝に集い、心からの賛美を捧げているあなたこそ、何よりの神の奇跡です、と何度か講壇から会衆の皆さんに向かって語ったことがあります。只今もそうです。まさに私たちは週ごとに「神の奇跡」を目撃しています。
モーセの心配の第二は、モーセが自身は「雄弁でなく、口の、舌の重い者です」と思っていたことです。(参照:出エジプト6:12、30)
しかし、主はモーセに「私があなたの口と共にあり、あなたに語るべきことを教えよう」と言われます。
ああ、主なる神が、私の口と共にあり、語るべきことを教えて下さるとは、何と幸いなことでしょう。このみことばの真実が、必ず、私たちの宣教の大きな力となるでしょう。
私たちは恐れます。相手にわかるように話すためには、どの様に語れば伝わるのでしょうか、心に響くのでしょうか。
牧師の仕事は色々とありますが、聖書のことばを通して神からのメッセージを聴いて、語ることです。説教という奉仕から牧師は逃れることができません。いつも私は口下手で雄弁ではありません。何をどのように語れば良いでしょうか、と悩みます。
しかし、何度も何度も一生懸命みことばに耳を傾けて聴いて、神様は何をこの聖書のことばから、今、何を語って下さっているのだろうか、と祈り、求めます。
人前で語ることは怖いことです。ましてや、モーセにとって、彼を認めないイスラエルの人々の前で、又、敵対するファラオの前で、聞く耳を持たない者、敵対する者、反対する者の前で語ることは尚更です。
主が「私があなたの口と共にあり、あなたに語るべきことを教えよう」と言われても、モーセは「ああ、主よ。どうか他の人をお遣わしください。」と答えます。
「主の怒りがモーセに向かって燃えた」と書かれています。…私がこれほどに言ってもおまえは「はい」と返事しないのか、という感じです。
モーセはイスラエルの偉大な指導者です。律法の代表者です。しかし、この箇所を読みますと、神の命令に対して、気持ちよく「はい」と答えていなかったことがわかります。主が選ばれた器は、必ずしも元々雄弁で、勇気があって、大胆で、力強い人であるとは言えません。ギデオンしかり、ヨナしかり、モーセしかりです。新約聖書では、あのパウロが口下手であったと記されています。「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない。」(第二コリント10:10)パウロはこれを受けて「たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。」(第二コリント11:6)と言っています。どうして主は、むしろこの様な弱さを持つ者を選び、用いようとされるのでしょうか。それは人の力によらず、神の力が明らかにされる為、神の栄光が力強くあらわされる為です。
*多くの雄弁な伝道者、説教家がよく自分について証しされる事は、自分は人に話すのが苦手で口下手な者です、という内容です。上手く話せないので、一生懸命主に頼るのです。上手に話をすることができるという人よりむしろ、牧師は口下手である賜物が必要であるのかも知れません。
煮え切らないモーセに対して、主はモーセの代理人としてモーセの兄であるアロンを立てられます。(モーセ80歳、アロン83歳)(出エジプト7:7)不思議な構図ですが、神の代理人がモーセであり、モーセの代理人がアロンとなります。
神はモーセに語られ、モーセはアロンに語り、アロンはイスラエルの民に、又、王ファラオに語ります。これからエジプトに遣わされて行くのは、モーセとアロンです。アロンの働きは実はとても大きなものとなっています。不思議ですが、イエスも十二弟子を伝道の為にそれぞれを遣わす時に、二人一組に分けて遣わしておられます。(マルコ6:7)バルナバにもパウロが、パウロにもテモテが、宣教がチームでなされています。神の働きは、同じ主の使命を受ける同労者と共になされるものです。
「神が私たちと共におられる」というしるしは、私たちキリスト者の歩みに、どんな変化を与えるでしょうか。力あることばとみわざが、神を信じる者の上になされます。
参考 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」と言われた。(ヨハネ11:40) (勝田台キリスト教会50周年記念誌の表題の「みことば」と「あかし」)
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