10月31日(日)礼拝説教全文
「血の花婿」 出エジプト記4:18~31
聖書協会共同訳見出し ミデヤンからの帰還
1 エジプトへの帰還(:18~23)
モーセは、神の山ホレブで燃える柴の前で主と会見した後、エジプトへ行く決心をします。
神との、「しるし」「ことば」「同労者」の説得?とも言える対話の中での決心です。彼の決心はどのようなものだったのでしょうか。十分に納得し、確信し、主の命令に従う堅い決意ができていたのでしょうか。
モーセは彼のしゅうと、妻ツィポラの父、雇い主であるエトロのもと(ミデヤン)に戻り、エジプトへ行く許可を求めます。ここでは、エジプトに行く真の理由は伏せています。エトロは「安心して行きなさい」と答えます。
ホレブでご自身を現わされ、語られた主は、ミデヤンでもモーセに語られます。ホレブ山の後、「私はいる」と宣言され、常に共にいて語ってくださる主がおられます。改めて、主がモーセに語られたことは、①モーセの命を狙っていた人々が皆死んだことです。ホレブ山では語られなかったことです。
モーセは妻と息子たちを連れ、あの蛇に変わった「神の杖」を手に持って、エジプトへ帰還します。モーセ1人が行ったのでなく、家族で出立します。
エジプトへ向かう途中にも主は語られます。
②エジプトからイスラエルの人々を救出する為に奇跡を行うこと
③主がファラオの心をかたくなにするので、彼がイスラエルの人々を簡単に解放しないこと
④そして、本日の中心テーマとなりますが、22‐23節は全文読みますが、「あなたはファラオに言いなさい。『主はこう言われる。イスラエルは私の息子、私の長子である』『私の息子を去らせ、私に仕えさせよと私はあなたに言ったが、あなたは去らせることを拒んだ。それゆえ、私はあなたの息子、あなたの長子を殺す。』」
②と③については、既に主がホレブ山で語られていたことですが(3:19~20)、主はイスラエルの人々を、「私の民」(3:7)とは呼ばず、「私の息子、私の長子」と呼んでおられます。
そしてここで、ファラオがイスラエルの民を去らせる決定打となる、最後のしるしについて語っておられます。それは、「ファラオの息子、ファラオの長子を殺す」という内容です。過越しのしるしについてです。10もの災いがエジプトに下されますが、それでもファラオは心を頑なにして、この長子が殺される災い(奇跡)によって、最終的にイスラエルの民を解放します。この主のしるしの実現は、もっと先のことです。しかし、今ここで主が語られたこととして記されているのです。
2、イスラエルの長老たちの前で(:27~31)
主はモーセと彼の兄アロンを「神の山ホレブ」で再会させられます。モーセはどれほどに励まされたことでしょう。彼と出会い、口づけをし、自分をエジプトに遣わされる主の「すべての言葉」「すべてのしるし」を彼に告げます。
いよいよ、エジプトに到着すると、全てのお膳立てをエジプトに長く住んでいたアロンが行なったのでしょう。イスラエル12部族の長老たちが全員集められます。そしてスムーズにモーセとイスラエルの人々の代表たちとの会見が行われています。アロンは、モーセに主が語られたことばと杖のしるしをもって、長老たちを説得します。人々の前に語ったのも、しるしを行ったのもアロンです。
イスラエルの長老たちの反応はどうだったでしょうか。拒否、反発だったでしょうか。否、民も「主がイスラエルの人々を顧み、その苦しみをご覧になったこと」を聞いて、信じ、ひざまずいて、ひれ伏しました。
モーセの危惧、心配はどうだったでしょうか。まことに第一関門は問題なく開きました。
これは推測に過ぎませんが、アロン(83歳)という人物が、エジプトのイスラエルの長老、民の間で尊敬・信頼を受けていた人ではなかったかと想像します。モーセひとりでしたら、このようにうまくいかなかったかも(主が成されることは全て実現しますが)知れません。主の山に備えがあります。「わたしはあなたと共にいる」とおっしゃった主に、「私は口が重いと」ごねたモーセの不敬虔な言葉さえも、主はご自身の栄光に変えておられるのを私たちは見ます。
3、「血の花婿」(:24~26)
エジプトへの帰還をここまで読むと、とてもすっきりとしています。
さてここで、本日の残りの24~26節の箇所に進みます。
エジプトへの帰還の、宿泊地での出来事です。
いきなりの内容ですが、「主はモーセと出会い、彼を殺そうとした」(:24)ということです。
ああ、なんということか。モーセは主からご自身のことばとしるしの権威を与えられてエジプトに行く決意をして、出発したのですが、ここでいきなり、主はモーセを殺そうとしたとあります。どういうことでしょうか。何故に主はモーセを殺そうとされたのでしょうか。こんなことは神様らしくない(身勝手な人の考えですが)とさえ思います。しかし、モーセは、事実あった出来事として主の深いおこころを伝える為に、これを記します。
モーセを殺そうとしたとありますが、どのような状況だったのでしょうか。いきなりの病いだったでしょうか。モーセが「死に瀕した」状況を、主が彼を殺そうとしたという内容で知ることができます。
モーセは何が起こったか自覚していたでしょうか。
ただ、ここでモーセの死を回避させたのは、妻ツィポラの行動であったことがわかります。「ツィポラは火打ち石を取って、その息子の包皮を切り、それをモーセの両足に付けた」(:25)とあります。これはアブラハム契約である「割礼」です。(創世記17:9~14)モーセの子は割礼を受けていなかったことがわかります。生後8日目に割礼を受けるということですから、生後3か月間隠されていたモーセも割礼を受けていたでしょう。しかし、彼の息子は受けていなかったのです。異邦のミデヤンの民の習慣にはもちろん「割礼」はありません。
「割礼」は神の所有のしるし、神の民のしるしです。私も、私から出る子孫も、全員が神のものであるという確固たる意味があります。どちらでもよいというものではありません。前にも何度も話しています様に、ユダヤ人がユダヤ人たる所以は、即ち神の民として為すべき、生きるべき最も大切なことは、「律法」「割礼」「(神殿)礼拝」を守ることです。それは永遠の神との契約です。
モーセがそれをしたのではなく、妻のツィポラが行ったことです。これも推察するしかありませんが、妻のツィポラは、モーセが死に瀕した理由を察しました。自分たちの息子に割礼を施していなかったということです。「先祖の神、アブラハムの神、イサクの神」に仕えて来たヘブライ人の神が、彼を撃とうとしている。それは、自分が子供の割礼に反対したからに違いない、と。この神、主に従っていくためには、割礼が必要だと察したのです。息子の包皮を切って、血のついた包皮をモーセの両足に付けて言います。「私にとってあなたは血の花婿です」
以前からツィポラはこんな残酷なことを息子にするのを拒否していたでしょう。傷をつけて、血を流して、神のものであるという契約をすることを。「あなたは血の花婿」という言葉は、肯定的にも否定的にも受け取れます。大事な息子の血を流さなければならない、ひどい花婿だ、とも受け取れます。
しかし、このツィポラの行動と告白によって、「主はモーセを放された」、つまり、モーセを殺すことをやめられたとあります。割礼のゆえに、「血の花婿だ」とツィポラが言ったのである、とあります。
結
主は「イスラエルは私の息子、私の長子である」と言われています。イスラエルの民は、エジプトの王、神の化身ファラオに所有される奴隷ではありません。神である主は「神の座に着くファラオよ、イスラエルの民を自分の所有と思っているファラオよ、私はあなたの息子、あなたの長子を殺す」と言われました。
私たちは、私たちの本質は、誰のもの、誰の民でしょうか。クリスチャンという言葉は、「キリストに属する者」という意味があります。キリストが絶対的な神であり、王であり、このお方の傘下にあり、このお方のしもべ、所有の者であるという意味です。
「キリストのしもべ」というと冷たい、辛いような響きがありますが、私たちの主イエス・キリストは血も涙もない、心無いお方ではなく、「血の花婿」なるお方です。私たちが契約の為に血を流さなければならないのに、主イエス・キリストご自身が「新しい契約」の為に、血を流して下さいました。キリストが十字架により、ご自身の尊い血によって、新しい救いの契約を立てられた愛の「血による花婿」であるならば、私たちはその血によって贖われた、買い取られた「血による花嫁」です。
「御子イエスの血によって、あらゆる罪から清められます」(第一ヨハネ1:7)
あなたはエジプトのファラオのものではない。キリストの血によって神のものです。
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