11月7日(日)礼拝説教全文
「主よ、どうしてですか」 出エジプト記5:1~23
聖書協会共同訳見出し ファラオとの交渉
・ファラオとの交渉
いよいよ、モーセとアロンはエジプトの王ファラオの前に立ちます。そして、イスラエルの民を去らせるように求めます。
「イスラエルの神、主が」エジプトからイスラエルの民を去らせよと、あなたに告げています。
ファラオは「主とは何者か」とその要求を退けます。
モーセとアロンは、「あなたが去らせなければ、主が疫病や剣で私たちを襲う」と告げます。
ファラオは「モーセとアロン、エジプトの多くの労働力を奪おうというのか、その仕事を休ませようとするのか」と彼らを退けます。
・その結果
ファラオは怒って、「れんがを作るわらを民に与えず、これからは自分たちで集めさせてれんがを作り、これまでと同じ量の仕事をせよ」と命じます。
王は、家臣であるイスラエルの民の労働監視役(民を追い使う者)と、彼らがヘブライ人の中から選んだ下役にそれを命じます。王の家臣は、れんがの生産量が減ったことで、ヘブライ人の下役を打ち叩きます。
これまでも重い苦役に悲鳴を上げていたイスラエルの民は、益々苦しむことになります。
イスラエルの下役の者たちは、モーセとアロンを非難します、自分たちの立場はますます悪くなり、その苦役は重くなったと。
モーセは主のもとに帰って言います。
「わが主よ、なぜあなたはこの民を苦しめられるのですか。
なぜ私をこうして遣わされたのですか。
私がファラオのもとに行ってあなたの名によって語って以来、ファラオはこの民を苦しめています。
それなのに、あなたはご自分の民を救い出そうとされません」(:22~23)
一回目のファラオとの交渉は失敗に終わり、決裂どころか、悪い事態へと進みます。
結果、イスラエルの民のモーセとアロンに対する非難が強くなります。
それゆえモーセは、「なぜ」と言います。
なぜ、あなたの民がますます苦しめられるのか
なぜ、私を遣わしたのか
なぜ、あなたはすぐに助け出さないのか
「主よ、どうしてですか?」と私たちも信仰生活の中で問うことはないでしょうか。
どうして、状況は悪くなる一方なのですか。
どうして、私がそれをしなければならなかったのですか。
どうして、あなたはすぐに応えてくださらないのですか。
主は確かに、エジプトからご自分の民を救い出し、豊かな地カナンへ導くことをモーセに約束されました。
しかし、主は、エジプトの王ファラオが心を頑なにして、なかなかイスラエルを去らせない、と予め告げておられます(4:23)。
私たちは、すぐに事が成って欲しいのです。願った通りになって欲しいのです。
祈って、願ったようにすぐに応えられることがあります。しかし、祈って、逆に状況が悪くなることもあります。前者なら、私たちの神は力強い神だ、祈りに応えてくださったと感謝しますが、後者ですと「主よ、どうしてですか」となります。
私たちには私たちの思い、願いというものがあります。同時に、主は生きておられます。主のみこころ、み思い、ご計画があります。
* 神の働きの為にと心構えをしっかりもって、遣わされて行ったら、毎回赤ちゃんの子守りばかりさせられた聖書学院の修養生の話
* 牧師が、広島のクリスチャンの群れに、宣教師と遣わされた時の証詞
神さま、どうしてですか。
* 証詞
人はどこまでいっても自我の塊です。自己中心です。ファラオもそうですが、モーセもそうです。
しかし、ファラオとモーセの違いは、ファラオは心を閉じ、モーセは主に問うています。
今まで何か困難がありましたら、自分で考え、知識や経験で乗り越え、時に誰かの助言をもらって乗り越えて来たでしょう。それでも事が成らなければ諦めていたでしょう。しかし、モーセは、主のもとに帰って、主に問うています。
「主のもとに帰って」という聖書の言葉は興味深い表現です。私たちの主は「わたしはあなたと共にいる」神であり、ファラオのもとに行った時も、共にいてくださった神です。これからもファラオの前に幾たび立つ時もそうです。しかし、ここでは「主のもとに帰って」とあります。
主の御顔はいつも私たちの方に向いていて下さいますが、私たちの顔は主の方にいつも向いているわけではありません。(願わくは、いつも向いている者でありたいですが。)ファラオや、イスラエルの民に向いていた顔を、振り返って主に向き直る、それが「主のもとに帰って」です。
* 証詞
「主よ、どうしてですか」というのは疑い、訴えの響きがありますが、主に自分の思いをぶつける、聞いて頂く、主のおこころを聞く言葉として受け止めたいです。そして、私たちの「神が共におられる人生」も、「主よ、どうしてですか」と何度も何度も祈り求めて行くのです。
もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった
多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった
もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛はあらわれなかった
まばたきの詩人、水野源三さんの作られた神様を賛美する詩です。
「希望は失望に終わらない」
最後に、苦難を受けている間は、「主よ、どうしてですか」と祈りますが、必ず、神は最善の、救いの道を開いて下さいます。神様の時があります。主に信頼する者は、決して失望に終わりません。必ず勝利があります。なぜなら、祈りを聞いて下さっている神、私たちの主は、戦いに長けた万軍の主、全能の神であられるからです。
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