11月21日(日)礼拝説教全文
「我らの国籍は天にあり」ピリピ3:10~21(墓前礼拝に向けて)
聖書協会訳見出し 目標を目指して
教会で新しく作りましたお墓に、本日6名の方が納骨され、後日1名の方が納骨されます。
いつの日か遠くない将来、私たちもどこかのお墓に納められる時が来ます。
キリスト教の葬儀・納骨は、隣人の死と向き合い、自らの終わりを深く思わせしめる時でもあります。
私たちキリスト者はこの聖書(手に取って見られる聖書)の言葉を信じていますが、聖書は、人間には解決しなければならない大きな定めがあると言っています。「人間には、ただ一度死ぬことと、その後、裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)。非常に重い内容の言葉です。
ひとつは死、もうひとつは罪に対する裁きです。そして聖書は、罪の問題に対しては、イエス・キリストによる十字架による赦し、死の問題に対しては イエス・キリストによる復活の勝利こそが、全ての人の解決の道、救いであると明確に宣言しています。この救いを与えて下さるイエス・キリストを信じることこそ、キリスト信仰であります。
今日の聖書の箇所でパウロは、「神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:14)と語っています。神の賞とは何でしょうか。キリストの復活を根拠とした死者の中からの復活です。それは、私たちが毎週礼拝で、「我は信ず」と告白しています「からだのよみがえり、永遠の命」のことです。
又、パウロは、この福音を信じて望みを抱いて走っている彼と人々に倣い、模範としなさいと言います。(:17)
信仰の生涯をパウロはしばしば競技にたとえています(オリンピックの発祥の地アテネ)
パウロが一生懸命目指して走った目標とは何でしょうか。それは神が用意されている、天の御国です。明確な目標に向かって日々を歩んでいます。
「罪」という語はギリシア語でハマルティアと言いますが、その語源は「的外れ」です。どこに向かって生きているのか分からない、まるで迷い出た牧者のいない羊のような人の姿です。人生の一寸先は闇。それが私たちです。目標のない走り方をしてはなりません。
私は勝田台教会に遣わされて来て、5年目になりますが、何人かの方々を、天の御国へ送りました。
牧師の使命・教会の使命は、天国にお見送りするまで、みなさんと共に歩むことであります。
最後に、どのようにしてこの目標に向かって走り抜くことができるでしょうか。その走り抜くことができる根拠は、
(:12)「キリスト・イエスによって捕らえられているからです」
神を捕らえているという者の弱さ 神に捕らえられているという者の強さ
(:21)「キリストは、万物を支配下に置く事さえできる力によって」
お墓は、全ての人にとって、この世にあっての終着点でありますが、教会の墓標には、本日読みました聖書箇所の、この言葉が記されています。国籍在天(フィリピ3:20)「わたしたちの国籍は天にあります」
あなたは何を目標として日々を歩んでいますか。私たちには帰るべき麗しい神の都があることを知ってください。わたしたちの国籍は天にあります。
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