12月5日(日)礼拝説教全文
「主が語られたとおり」出エジプト記7:1~13
聖書協会共同訳見出し モーセとアロンの役割(6:28~7:13)
いよいよ、これからエジプトの王ファラオとの交渉、対決が始まります。
主がモーセに「あなたをファラオに対して神とし、兄アロンはあなたの預言者となる」と告げられます。そして、しるしと奇跡(災い・大いなる裁き)をエジプトの上に行うことを告げられます。
主はモーセに語られ、モーセはアロンに語り、アロンは民に、そしてファラオに告げるという役割になります。
しかし、続けて主が語られたのは、これまでも繰り返し語られていますが、「ファラオの心はかたくなになり、言うことを聞かない」というものでした。これから何度も何度もモーセとアロンはファラオのもとに行き、イスラエルの民を去らせるように告げるのです。しかし、ファラオは聞かないというものです。一度ではなく、何度も何度も。
神の偉大な御力であるならば、エジプトを滅ぼすこともお出来になるでしょう。しかし、容易い道ではなく、繰り返し交渉し、繰り返し「しるしと奇跡」を行わなければなりません。どうしてなのでしょうか。神、主自らが、このミッションを困難なものにしようとされているとさえ思います。
「私はファラオの心をかたくなにする」(:1~7) *10章1~2節参照
何故に苦難が私たちの人生につきまとうのか。「健康の問題」「経済・生活の問題」「人間関係」等、それらが耐えられない重荷になることもあります。
創世記で、神は罪を犯した最初の人アダムとイブに、男性には労働の苦しみ、女性には産みの苦しみを課しました。「あなたの身ごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産むことになる」(創世記3:16)。「あなたは生涯にわたり、苦しんで食べ物を得ることになる。額に汗して糧を得る」(創世記3:17~19)。とあります。
「苦しんで」、「苦しんで」、とあります。神との関係が壊れた時から、世界に「苦しみ」が入りました。
以前この創世記からメッセージをしましたが、「苦しみ」は人の罪に対する神の裁きであることがわかります。しかし、神は人をその場で人を滅ぼしてしまわれたのではない。「苦しみ」を与えられた。猶予を与えられた。なぜなのか。それは人が「苦難」を通して、悔い改めて神に立ち返る為です。
人はどこまでも自己中心であり、かたくなであり、自分の罪を認めない者です。何もかもがうまくいくと(何もかもはないですが)特にそうです。「苦難」は人を砕きます。「苦難」は人の高慢・かたくなさ・おごりを砕きます。
神の救済のご計画は、アダムとイブの時から始まっています。
イエスは山の上で、「貧しい人々は幸いだ」「今飢えている人々は幸いだ」「今、泣いている人々は幸いだ」「(人から虐げられている人は幸いだ)」(ルカ6:20~21)、今苦難の中にいる人は幸いだと言われ、「富んでいる人は災いだ」「今食べ飽きている人々は災いだ」「今、笑っている人々は災いだ」「皆の人に褒められるとき災いだ」と言われるのでしょうか。世の人々が幸せと考えることと真逆の内容です。「苦難」は幸せをもたらすと言わんとする内容です。
貧しいこと、飢えていること、泣いていること、いじめられていること、それ自体は決して幸いなことではありません。しかし、その先があります。貧しい者は、神の国を受けます。飢えている人は、満たされます。泣いている人は笑うようになる。迫害を受ける者は、天の報いを与えられます。とイエスは言われます。
苦しみの中で、人は神を求め、救いを求め、そして、神から慰めを、力を、助けを得るからです。
神からの救いを受ける人は、幸いです。
苦難とは、神に立ち返る為にあります。苦難は神の裁きでありますが、神の憐みであります。
今苦難の中におられる方々、「何ゆえに私はこのような苦しみに会わなければならないのか」と叫ぶとき、あなたの人生において、今こそ神に立ち返る時なのです。主を知るためです。
そして、非常にやっかいな人の罪深さを語らなければなりませんが、一度の苦難で、人の心が砕け切るのかというと、のど元過ぎれば熱さ忘れ、また元に戻ってしまうのが私たちなのです。私たちの人生には何度も何度も「苦難」が臨みます。そのたびに私たちは深く主を知ります。
* どん底の下に十字架につけられたイエスを見た(ある修養生の証し) 自分自身に絶望して、その先に…
人は過酷な苦難の先に絶望を見ますが、知って下さい。神、主に従う人、信頼する人は、苦難の先に希望と喜びを見ます。苦難の先にですので、今の苦難は神と共に耐え忍ばなければなりません。
産みの苦しみは、苦しんでいる時は過酷な痛みに耐えなければなりませんが、その先に子供が与えられる喜びがあります。額に汗して土を耕すことは、茨やあざみ、日照りや嵐によって過酷な労働に耐えなければなりませんが、その先に労した後の実りの収穫があります。
何度も何度もモーセとアロンはファラオのもとを訪れます。モーセとアロンも落胆しそうになることもあったでしょう。それでも何度も「神のことば」に従います。「神のことば」に従います。そして「しかし、私はファラオの心をかたくなにするので」という神のことばにぶつかります。イスラエルの民を解放しようと言われる神ご自身が、わざわざファラオの心をかたくなにする。イスラエルの民をすぐに去らせないと言っておられるような言葉です。このような一見矛盾したような言葉が、イスラエルの救済の歴史の中には何度も出て来ます。
人は、世界の苦難、自分自身の苦難、あまりにも厳しい、過酷な出来事を見て、神がおられるなら、何故神がこのようなことを許しておられるのか、と神を非難し、拒絶しようとします。どうして自分だけこんなに苦しまなければならないのか、神がおられるのなら何故、と言います。
そうでしょうか。「神よ、私を憐れんでください」「助けてください」「救ってください」と上を見上げるべきではないでしょうか。神に救いを求める者に、神は聖霊によって信仰をくださいます。そして私たちは何よりも、イエス・キリストを受け取ります。イエスこそが慰めであり、力であり、喜びであり、希望であり、救いであることを知るのです。
「私は、私の集団、私の民イスラエルをエジプトの地から導き出す。」(:4)神、主の約束です。
ファラオの前での最初の奇跡(:8~13)
モーセとアロンは主に命じられ、ファラオのもとへ行きます。神はモーセに「アロンに『自分の杖を取ってファラオの前に投げよ』と言いなさい。すると杖は大蛇になる」と言われます。
(あなたがたの神、主が「しるしと奇跡」をもってイスラエルの民を去らせると言うのなら、)「奇跡を行え」とファラオは言います。アロンが自分の杖をファラオと家臣の前に投げると、杖は大蛇になります。
ファラオはエジプトの賢者、呪術師、魔術師を呼び寄せ、モーセとアロンに対抗して、彼らも杖を投げ、その杖が大蛇になります。
古代エジプト王の権威の象徴として蛇があります。紀元前1300年頃のツタンカーメンの黄金のマスクをご覧になられた方がおられるでしょうか。王の頭、額の上には蛇が飾られています。神聖・王権の象徴が大蛇なのです。蛇の持つ毒はどのような生き物も、王でさえも抹殺します。
これからのモーセとアロン、ファラオと家臣、魔術師との対決における、神のしるし・奇跡の内容は、エジプトに祭られている神々との対決、又、最終的には神の化身とされるファラオとの対決という形になります。
もちろん神々というものは存在しないし、ファラオも神ではなく人間の作り上げたものでありますが、エジプトの王と民も、「エジプト人は私が主であることを知るようになる。」(:5)為のものであることがわかります。
エジプト人が神である主を知り、イスラエルの民が神である主を知る。そして私たちが神である主を知る為です。
これ以後もファラオの前で、神のしるしと奇跡が行われるたびに、ファラオは心をかたくなにしたと書かれています。そして、これは「主が語られたとおりである」と繰り返し書かれています。何回この言葉が書かれているか数えてみてください。全て、主のなされた奇跡としるしも、ファラオのかたくなも、主の語られたとおりになります。神のことば、聖書のことばは必ず実現します。私たちに与えられた神の約束であり預言です。
最後にクリスマスの記事、身ごもったマリアを、聖霊に満たされて祝福した、アロンの一族の娘エリサベト(ルカ1:5)の言葉を聞きましょう。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」(ルカ1:45)
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