12月12日(日)礼拝説教全文
「心から主を崇め、たたえる -マリアの賛歌-」ルカ1:45~55
聖書協会共同訳見出し マリアの賛歌
アドベント第三週、いよいよ次週のクリスマスを前に、本日はイエスの誕生の出来事の記事を読みたいと思います。
ルカによる福音書は、イエスの誕生の出来事として、マリアへの御使いの受胎告知、マリアが親類のエリサベトの家を訪れる、と続きます。
イエスの誕生が予告される(:26~38)
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」御使いのマリアへの挨拶からはじまります。
「…あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(:31)
マリアは、最初は「どうして、そんなことがありえましょう。」(:34)と自らの懐妊の御使いの知らせに、あり得ないと否定しています。又、婚約中に婚約者のでない者の子を懐妊するとしたら、それは決してめでたいことではなく、婚約は破綻になるばかりか、危機的な、厳罰を受けなければならない事態になります。しかし、最終的には、信仰をもって「私は主のつかえ女です。お言葉どおり、この身になりますように。」(:38)と答えています。これは、ただ事ではない受諾です。
マリアは親戚のエリサベトの家を急いで訪れます。御使いが「あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6か月になっている。神には出来ないことは何一つない」(:36)、と告げた言葉の確認の為です。
マリアがエリサベトを訪れ、挨拶した時、エリサベトは聖霊に満たされて言います。その内容は、マリアも身ごもっており、その胎の子は「主」である。というものでした。マリアを「女の中で祝福された方」「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた、幸いな方」と呼んでいます。おそらく、エリサベトも自分の懐妊の次第をマリアに話したのだと思われます(1:5~25)。自分も夫のザカリヤに御使いの知らせがあり、老年でありながら懐妊したこと、又、5カ月、身ごもったことを隠していたことを(1:24)。エリサベトの証言と事実は、どれほどにマリアを勇気付けたことでしょう。(ただ、エリサベトとマリアの違いは、エリサベトは夫との子供ですが、マリアは婚約者ヨセフとの子供ではないということです。危機的な状況が違います。)
どれも、御使いの告げたとおりでした。マリアは少女ではありましたが、この想像を超える御使いの告知を受け入れ、さらに彼女の思いは確信へと強まっていったことと思います。
― 詩を味わいましょう。たくみな言葉・表現によって綴られたそのメッセージ(深い意味)を味わい知るために。
マリアは、主をほめたたえる詩を主に歌います。(* サムエル記上2章「ハンナの祈り」と比較 )
心からの賛美
「私の魂は主を崇めます。私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」
喜びと感謝にあふれています。 Sing like never before Oh my soul soul=魂(心の最も深い底)
聖霊に満たされて賛美を主にささげる。そんな賛美を礼拝で、また、日々ささげる者でありたいと願います。
聖霊は力強い神の愛、平安、喜びを与えてくださいます。唇が聖霊によって支配されるのは、こういうことだと思います。又、先に待ち受ける困難よりも、今、喜びをもって主をほめたたえる心を与えます。
主のはした女(身分の低い、召使いの女)
「この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。
力ある方が、私に大いなることをしてくださったからです。」
「仕え女」は特に身分の低いという意味を持ちます。マリアは自分のような、身分の低い、お金持ちでもない、何か特別なものがあるわけでもない、若い未熟な(12才~16才諸説あり)者、主の母となるなど畏れ多い者、到底ふさわしくない卑しい仕え女であると自覚しています。私のような無きに等しい者に、主が目を留めてくださった。力ある方が私を引き上げてくださった、と歌っています。
「私は主の仕え女です」私はしもべです。心の底からそれを自覚し、神、主の前にへりくだる者は何と幸いでしょう。
「その御名は聖であり、その慈しみは代々限りなく 主を畏れる者に及びます。」
私たちの主は、聖なる神です。聖なる神は、私の罪をきよめてくださいます。主の慈しみは、主を畏れる者に、代々限りなく及びます。
「主を畏れる者。」主を畏れず、高ぶる者は何と愚かでしょう。聖書が教える神に創造された人本来の尊さ、素晴らしさがここにあります。「主を畏れることは知識の初め。無知な者は知恵も諭しも侮る。」(箴言1:7)にあります。主を畏れるとは、神、主の前にひれ伏し(礼拝の姿勢・意味)、神を愛し敬う心と生活です。それが神に造られた人の、全ての行動の源となります。
「主は御腕をもって力を振るい、思い上がる者を追い散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を何も持たせずに追い払い、」
主の御目は、貧しい者、身分の低い者、飢えた者に向いています。この世における「小さい者、弱い者に」です。富や権力そのものが悪いものではありませんが、富める者、権力のある者は、この世にあって、それを神に託された者として、神のおこころに従った用い方をしなければなりません。愛とは与えることです。ひとり子をお与えになった神の愛にこたえるということは、恵まれない貧しい者に物質的な援助を与え、あわれみの心で人が困っている状態を助けるような行為をすることです。
* イエスの話された「金持ちとラザロのたとえ」(ルカ16:19~31)はいつも私たちが心に留めておくべきことです。金持ちとラザロを、日本と、貧困と飢えに苦しんでいる国々とに置き換えることもできます。
「慈しみを忘れず、その僕イスラエルを助けてくださいました。私たちの先祖に語られたとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」
出エジプト記をその代表として、旧約の歴史の中で、神はご自身の契約、慈しみを忘れず、「私の民」「私の子」と呼んでイスラエルを顧み、何度も救い出してくださいました。
この神、主が、ご自身のひとり子、イエスを私たちに与えてくださり、私たちを罪と死と、滅びの中から救い出して下さるのです。
さあ、いよいよ次週はクリスマス礼拝です。4本のローソクに火がともされます。
主イエス・キリストの御降誕を、あなたへの神の御愛、主のおこころを、静まって味わい知りましょう。
聖霊をいただいて、魂、心の奥底から、主を崇め、たたえましょう。
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