12月26日(日)年末感謝礼拝説教全文

「あなたは、私に従いなさい」 ヨハネ21:18~25

本日の礼拝は2021年、今年最後の礼拝となります。

今年はコロナ感染予防のためにほとんどが、動画での自宅礼拝となりましたが、今年の最初に、新年のみことばを聞き、「そこに主のための祭壇を築き」(第二サムエル24:25)と、主にみことばを語って頂きました。そして、この一年、コロナが収束するように祈り、「主はこの国のために祈りに応えられ、イスラエルを襲った疫病はやんだ」というみことばから、神である主のご権威によって、この言葉が実現するようにと祈ってまいりました。

先週のクリスマス礼拝では「降誕」をテーマに、降りて来てくださった救い主についての「大きな喜び」を受け取るようにというメッセージを聴きました。ヨハネによる福音書は、マタイ、マルコ、ルカと違い、歴史的な主イエス・キリストの誕生の記録を記していません。むしろ、主イエス・キリストがどのようなお方で、私達に何を与える為にこの地に来られたのかという、イエスというお方は誰なのかという書き出しをしています。

神であられたお方が、人となり、私たちの間に住まわれた。

このお方は、神の御子であり、私達にいのちと、光を与える救い主である。

「神が人となられて、この地を歩まれた。」イエスをすぐ近くで見、イエスと共に生きたヨハネの証しです。

イエスの生涯における権威あるお言葉と、力ある御わざ。そして十字架、復活、顕現をヨハネは目撃しました。そして信じました。ヨハネによる福音書を読み進んできますと、まさに「このお方こそ、神の御子、キリストである」。神の御子にふさわしいお方は他にはなく、又、このようなお方は世界の中にも、歴史の中にも見出せないお方である、とその御生涯を読むことができます。

神であられるイエスが私たちのこの世界、地に降りて来られ、歩まれ、「罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の命」を私たちに与える為に、罪なき生涯を歩まれ、十字架、そして復活によって救いの道を開いて下さいました。

今私達の住むこの地に降りて来て下さった、神の御子。その生涯を読めば読むほどに、よみがえられた主イエスは、弟子達と民衆たちと共に歩んで下さったように、今も同じく私達の人生のこのところに降りて来て下さり、生きておられる主イエスは私達と共に歩んで下さる。そのような実感と確信をいただくことができます。歴史の中を歩まれた主イエス、そして今この私たちの世界に歩んでおられる主イエスを知ります。

今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書の最後のところです。

読み進んで、この最後の21章に進みますと、20章の最後の30節~31節が「本書の目的」について全体を締めくくった言葉の様にも感じられます。ヨハネは、20章で一度筆を止め、再び21章を書き始めた、そのような感触を受けます。

主イエスの最後のエピソードは、20章はその場所はエルサレム、21章はその場所はガリラヤとなります。ガリラヤ湖、湖畔での、主イエスとペトロ、そして、この書を書いたヨハネ自身の事です。

主イエスの語られる、ペトロの最後、そしてヨハネの最後の予告となります。

イエスは最後にペトロに告げられます。「よくよく言っておく。」「まことに、まことに、あなたに告げます。」これはイエスが大事な事を話す時に言われる語り口調です。

「あなたは、若い時は、自分で帯を締め、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れていかれる。」自分で何事もできる若い人のようでなく、介護を受けて連れて行ってもらわなければならない人のように。このイエスの言葉は、ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、こう言われたとあります。

イエスはペテロの最後を予告し、「私に従いなさい」と言われます(:19) Follow Me

ペテロの最期を小説に書いた作家がいます。

本のタイトル「クォ・バディス(QUO VADIS」。著者;ヘンリク・シェンキエヴィチ ポーランドの歴史小説家(1895年)です。

その小説のクライマックスに「主よ、どこへ行かれるのですか」というペトロの言葉があります。「ドミネ(DOMINE=主)・クォ・バディス。」(ラテン語) これは、ヨハネ13:36にあります十字架に向かわれるイエスに向かってペトロの言った言葉です。イエスはそのペトロの言葉にお答えになりました。「私の行く所に、あなたは今は付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる。」

ローマ皇帝ネロのキリスト者迫害の時代背景の中で、堕落しきったローマ、紀元64年、ローマの大火、紀元70年エルサレム陥落、そのような歴史の流れの中にペトロはいます。

ローマ帝国によるクリスチャンへの迫害が激しさを増す中、多くのクリスチャンが殉教する中、ローマをキリスト教に改宗させる使命を神からいただいているペテロはその迫害の嵐の中、最後までローマに留まろうとします。しかしペトロは、クリスチャンの兄弟姉妹に激しく求められて、ついにローマを離れる事に同意します。

真夜中に出発して、ローマを背にして道を歩き、翌朝まで歩き続けたその夜明けの光の中に、ペトロはこちらに向って歩いて来られるイエスと出会います。

ペトロは驚き、跪いて、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問います。

イエスが言われます、「あなたがわたしの民を見捨てるなら、わたしはローマへ行って、もう一度十字架にかかるであろう。」

ペトロは来た道を引き返します。そして捕らえられ、十字架の、それもさかさ磔の十字架で殉教します。

キリストの十二弟子の10人は殉教の死を遂げます。まさに、天国は彼らのものです。

(ヨハネの最期:ヨハネはイエスの母マリアとエペソに住み、後、ローマの迫害でパトモスへ幽閉されます。たった一人でヨハネはキリストの最後の弟子としてパトモス島で時を過ごします。パトモス島で神から幻をいただき、ヨハネの黙示録を書きます。その後釈放されて、エペソに戻ったとも伝えられています。)

ペトロは殉教の死を遂げ、ヨハネは黙示録を書きます。

ペテロとヨハネはそれぞれに主の使命をいただいて、その使命を全うしました。

さて、ペテロは主イエスに質問しました「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(:21)。これは、この人(ヨハネ)の最後はどうなのですか、という問いです。イエスはペトロに、彼は彼、あなたはあなたである、「あなたは、私に従いなさい。」(:22)You follow Me.と語られます。

主はあなたが人生で主イエスに従う日常を歩むことを願っておられます。

主の後ろを歩く=主の弟子たちが主の後ろにいつも従って歩んだように。

生きておられる主の後ろを歩く人生こそ、キリスト者の残された人生の全てであります。

主イエスのことばを聞き、主イエスのわざに励む。

「私は絶えず目の前に(私の前に)主を置く。主が右におられ、私は揺らぐことがない」(詩編16:8)

今年最後に、今一度、主イエスのこの言葉を聞きましょう。 「あなたは、私に従いなさい。」

「主よ、あなたの後ろについて行きます。」

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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