2022年1月2日(日)礼拝説教全文
「私の前に主を置く」 詩篇16篇1~11 ミクタム。ダビデの詩
ミクタム=「黄金」の意味。詩篇56篇~60篇は全てダビデのミクタムとなっています。意味は定かではありませんが、音楽的な意味があるとされています。新年の最初にこの詩篇16篇を味わいたいと思います。
神よ。私を守ってください。私はあなたのもとに逃れました。(:1)
マハセ=避け所 信頼を置く場 困難の時に身を避ける場所
ミクラット=逃れの場(街) シェルター 困難を回避する為に身を避ける場所
ミスガブ=要塞 戦いに備えた防御
私をお守りください、 神の守りを求める祈り
悩み・試練の中にあります。助けてください。救い出してください。
悩み・試練に会うことのないように 全ての災いから逃れさせてください。
あらゆる戦いに勝利できるように 守って下さい。 この一年、まず、この祈りを主にささげたい。
神は、私たちの避け所、また力、悩める時にすぐ近くにある助けです。(詩46:1)。
私は主に言います。「あなたこそ、わが主。あなたのほかに幸いはありません」と。(:2)
これはダビデの信頼の歌。「わが主。」わたしは主の僕。それが神と私の関係です。
どのようなものがあっても、私にとっての幸いは、主ご自身以外にはありません。 他にありません。
* 私たちは他に幸いを持ち過ぎてはいないか… 暗闇の中に輝く光 世の中の光に埋もれてしまってはいないでしょうか (人生で私たちに必要な幸い 衣食住 を楽しむことは罪ではありませんが)
主が、「聖なる者、私の喜ぶ力ある者」と呼ばれる者とはどのような者でしょうか (:3~4)
神は全ての人を愛しておられます。しかしどのような者を喜ばれるのでしょうか。 それは、礼拝者です。
偶像礼拝をしない者 消極的
神である主のみを愛し、礼拝する者 積極的
まことの礼拝をささげ、神の前にへりくだる者
そして、熱心に神に頼り、求める者 * 救われる者か礼拝者か 同じではある筈だが
主はわが受くべき分、わが杯(:5~6)
主ご自身が、わたしの全てを満たすお方です。私のくじを決める方。土地を測る測り縄を落として、輝かしい相続地を与えて下さるお方。
全ての良いものを与えて下さるお方。仕事・働き・(使命)も、相続地も、導いて与えて下さるお方です。
諭してくださる主をたたえよう。夜ごと、はらわたが私を戒める。(:7)
主は私たちを諭して下さいます。戒めを夜ごと、はらわた(心の奥底に)に与えて下さいます。私に諭しと戒めを与えて下さる主をたたえます。私たちには、主の諭しと戒めが必要です。
私たちは、主から教えを、学びを受ける者、そしてそれを蓄え、生きる者です。
私は絶えず目の前に主を置く。(:8~9)
目の前に主を置くとはどのような心、行動、生活でしょうか。
それは後ろに従う者=羊飼いと羊の関係と言えます。
それは御顔を仰ぐ者=イエスとマリヤのように ひれ伏して主を前に、みことばに聴く関係と言えます。
主が右におられ、私は揺らぐことがない。
主を前に置く者に対して、主は右(隣り)に立って下さいます。どうしてか。それは私を愛してくださって私を支えるためにです。私達は主の隣に自分で立つ資格はありません。主が隣に立って下さいます。
「右(右手)」それは力・権威の象徴です。主は萎えてしまった私の腕に力を与えて下さいます。
主が僕に過ぎない私達の右に立って下さって、友と呼んで下さり、一緒に歩んで下さいます。
『元旦礼拝で、マタイ11:29~30を読みましたが、私たちはまさに 主のくびきを負って、学ぶ者です。「私のくびきを負い、私に、学びなさい」と仰る主イエスの御言葉を聞きました』
この詩に歌われている神である主との関係の中に生きる事こそ、私たちの喜びです。
私の心は喜び、心の底から喜び踊り、この身も安らかに住まう(日々を平安に生活することができる)。
あなたは私の魂を陰府に捨て置かず、あなたに忠実な者に滅びの穴を見せず、命の道を私に示されます。
(:10)
私たちは、主イエス・キリストにある復活の希望と、主が共におられる天(国)にいる喜びがあります。
右の手には麗しさが永遠にありますように。(:11)
満ち足りた喜びが、あなたの御前にあり、楽しみが、あなたの右にとこしえにあります。(新改訳2017)
最後には主の右の麗しさに置いて下さり、高く上げて下さいます。
神の子ども、御国の世継ぎ、治める者(王)とし、嗣業の地を与えて下さいます。
一年の計は元旦にありと言いますが、
この一年、日曜日は52回あります。まず、52週、主日礼拝に主を私の前に置く者でありたい。
そして、毎日、毎日、朝に夕に、主を私の前に置く年を送りたい。
主イエスの軛を負うて、主イエスに学ぶ。
この一年、「イエスは私の主、私たちの主である」と告白し、生活していきましょう。
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