2月13日(日)礼拝説教全文
「初子を主にささげよ」 出エジプト13:1~16
参照:ルカ2:22~24
出エジプトの出来事は、イスラエル人の歴史の中でどれほどに大きな経験であったでしょう。神であられる主の他に神はいないことを知る機会であり、その全能の神の偉大な力と憐みを後世の子孫に語り継ぐべきものであったことがわかります。「過越しの祭」「除酵祭」という形で救い出されたことをしっかりと記憶し、形骸化させることなく、国としての領土を失う期間が長くあってもこの祭りを守り行い、そうすることが彼らの希望となり、血肉となり、支えとなり、変わることのない神への信頼になってきたことがわかります。
今まで、出エジプトの出来事を後の子孫に語る為に、「過越しの祭」、即ち、小羊の犠牲、その血による救い、又、「除酵祭」、即ち、種無しパンによる聖別を読んできました。又、先週は、共にエジプトを出た「雑多な人々」の中の異邦人も条件を満たせばこれらの祭りに加わることが出来る開かれた祭、祝福であることを読みました。
誰であっても、神である主の前に罪が赦され、きよめられることが、何にも優って必要であり、何にも優って幸せであることを聖書は私たちに教えています。
それは私たちにとって、消極的には死と神の裁きからの解放でありますし、積極的には神によって造られた人の本来の姿として神の栄光を表すものとなります。
順番は逆になりますが、2節を後にして、3節~10節をまず読みます。
再び「除酵祭」について(:3~10)
モーセは、再び「除酵祭」について民に告げます。
7日間の主の祭りです。出エジプトを覚えて、7日間種無しパンを食べ、祭りとしてこれを行うこと。種入りのパンはイスラエルのどの領地にもあってはならない。これまでも何度か読んできた内容です。
徹底的にパン種を取り除く。パン種は全てイスラエルの内から取り除かれなければなりません。
「子どもたちが『この儀式の意味は何ですか』と尋ねる時は」(12:26)、「『これは、私がエジプトを出るとき、主が私にしてくださったことによるのだ』と伝えなければならない。あなたはこの言葉を、自分の手に付けてしるしとし、また、額に付けて記念としなさい。」(:8、9)
自分の手に付けるのは、常に自分が目にする為にですし、額に付けるのは、常に他者が目にする為にです。
いずれも、それは、主の律法があなたの口にあるためであり、主が力強い手によって、あなたを導き出された事を覚えるためです。
「私が」という言葉は一人称単数で、「私たち」となっていません。単に歴史を語るなら「私たちは」「私たちイスラエルは」となるものですが、これは誰か昔の人がでなく、一人一人が自らの経験として告白する表現です。
この「祭」の掟は、毎年定められた時に守らなければなりません。
「私はイエス・キリストによって救われました」とキリスト者は自分の手に付け、額につけてしるしとし、自らも口で告白し、誰からもそう見られる者でありたいと願います。
先の2節に戻ります。
初子をささげる(:2、11~16)
主はモーセに告げられます。「すべての初子を聖別して私に献げなさい…人も家畜も、すべての初子は私のものである。」(:1)
これも出エジプトを覚える儀式となります。主の力強い手が、イスラエルの民をエジプトの地・奴隷の家から解放する為に、又、ファラオのかたくなな心を砕く為に、人の初子から家畜の初子まで、エジプト全土の初子を打ちました。初子は全て主によって取り去られました。「初子はすべて、主に献げなければならない。家畜も人も最初に産まれる雄、男の子は全て主のものである」と言われます。(:12~13)
ろばは献げものとしてふさわしくないので、小羊を代わりとして贖わなければなりません。
又、最初に産まれた男の子は、小羊をもって贖わなければならなりません。
最初の男の子を主にいけにえとして献げよ。しかし、その命の身代わりとして(贖いとして)小羊を献げよ、という内容です。
「初子を主に献げよ」という主の命令は、小羊による贖いがなければ、人身御供のようなものです。かつて、アブラハムに主が命じられた内容です。(創世記22:1~19を読んでください。)ようやく長く待ち望んだ主の約束が成就して与えられた子、イサク。彼は高齢のアブラハム夫妻にとっては、彼らの命に優る子です。その子をモリヤの山に連れ登って、刃物で切り裂き、火で焼きつくして、いけにえとして献げなさいという主の命令です。何故に、なんという主は酷いお方か、と言いたくもなります。アブラハムは祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って薪の上に置き、刃物を取り、息子を屠ろうとします。アブラハムはこの理不尽とも言える主の命令に従います。息子を裂こうとする彼の心は、既に裂かれていたでしょう。
しかし、ここで主の使いが遣わされて、ストップがかかります。主は一匹の雄羊を用意され、アブラハムは息子の代わりにその雄羊を屠り、焼き尽くすいけにえとして献げます。ヤハウェ・エレ(アドナイ・エレ)「主の山に、備えあり」とアブラハムがその場所を名付けます。「主の山に、備えあり」とは、「カルバリ山に、私たちの罪の身代わりとしての小羊の備えがある」ということでしょう。
初子を主に献げる身代わりに、贖いの小羊を献げる。それは全焼のいけにえ、神に自らの全てを献げる燔祭、献身の証詞です。(ローマ12:1)
新約聖書(ルカ2:22~24)
イエスの父母、ヨセフとマリヤも、マリヤの清めの期間が満ちて、初子である赤子イエスを主に献げる為に神殿に連れて行きます。それは主の律法に「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからです。
レビ記12:6~8に、献げる動物は、焼き尽くすいけにえとして一歳の雄の小羊、清めのいけにえとして若い家鳩か山鳩一羽です。小羊を経済的に貧しくて献げることができなければ、山鳩二羽か若い家鳩二羽を代用します。そのようにありますので、経済的に貧しかったヨセフとマリヤは、小羊ではなく、鳩を二羽献げました。
* 私の父母も、私が初子、長男なので、主に「この子は献げます」という思いをもって献児式に臨んだ、という証詞を聞いています。
「初子を主に献げる」。それは自分の最も大事なものを主に献げるという意味であり、これは私たちの神である主に対する全き献身の告白です。力強い主の御手によって出エジプトを経験した民に、主が命じられた律法(掟)です。
今、私たちはこの「初子を主に献げよ」という主のことばに、どのように応えるべきでしょうか。
神が私たちを愛し、憐れみ、まず私たちの救いの為に、「ひとり子を献げて下さった」、イエス・キリストの十字架を見上げましょう。これなしに、「初子を主に献げよ」という主の言葉に応えることの出来る者はいません。そして、「私は、私の全てはあなたのものです」と信仰をもって、自らを主に献げましょう。手に、額に、「私は主イエスによって救われた、主のものです」という言葉を付けて、何度も何度も、口にし、心に留めて、神の憐みと愛を受け止めて、喜び、賛美の声を上げましょう。
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