2月27日(日)礼拝説教全文

「分かれた海の中を通って」 出エジプト14:5~31

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい」(:14)

〇 主に任せよ、主が戦われる

ファラオはエジプトの全軍勢を率いてイスラエルを追います。

エジプトからイスラエルを解放したファラオは、心変わりをして、イスラエルの民を追います。

エジプトの全軍勢を率い、600台の選り抜きの戦車、エジプトの全戦車を集め、徒歩のイスラエルの民を追います。ピ・ハヒロトの海辺に宿営していたイスラエルの集団に追いつきます。

イスラエルの人々が目を上げると、ファラオの戦車軍団、騎兵、歩兵が背後に迫ります。彼らの前方には紅海が立ちはだかります。

イスラエルの人々はモーセに言います「荒れ野で私たちを死なせるために連れ出したのか。何ということをしてくれたのか。荒れ野で死ぬより、エジプトの奴隷の方がましだ。」恐れ、悲鳴を上げ、叫びます。

モーセはファラオが心変わりしてイスラエルの人々を追って来ることを予め主から聞いていました。又、この時に主が栄光を現わす、とおっしゃった言葉を心に確かに留めていました。

ですから、このような絶体絶命の状況の中でも、モーセは民に大胆に力強く宣言します。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは・・・(エジプト人を)もはやとこしえに見ることはない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。」(:13~14)

主が私たちの為に戦ってくださる、とは何と幸いな事でしょう。どのような敵も万軍の主に立ち向かえる者はいません。このお方が味方であるなら、誰が私たちに敵することができるでしょうか。大事なのは、主に任せ、委ねること、慌てふためいたり、狼狽えたり、じたばたしないことです。慌てて何か自分で解決しようとしてもろくな結果にはなりません。私たちには、お任せすることのできるお方がおられます。

〇 ご自身の栄光を現わす主 ―夜中の紅海歩渡―

主はモーセに言われた。

「あなたは自分の杖を上げ、海に向かって手を伸ばし、海を二つに分けなさい。(そしてイスラエルの人々は海の中の渇いた地を進み、向こう岸へ渡ることができる。)」

今までイスラエルの民の先頭を進まれた主の臨在を表す「火と雲の柱」(:24)は、一番後ろ(しんがり)に移動し、エジプトの軍勢とイスラエルの人々の間に留まります。一晩中、「火と雲の柱」がエジプトの軍勢の追撃を止めます。

モーセは主の言われたとおりに、杖をもって海に向かって手を伸ばします。

夜通し強い東風が吹き、海を退かせます。乾いた地が現れ、水が右と左に壁のようにうず高く分かれた紅海をイスラエルの全集団が進んで行きます。イスラエルの人々が海を渡ったのは、エジプトを出た時と同じく、一晩中かけてであったことがわかります。

二つに分かれた海をイスラエルの民が渡り終える頃、エジプトの軍勢の前に立ちはだかっていた火と雲の柱が移動して、彼らは一斉に分かれた海の中の渇いた地になだれ込むようにして追って来ます。間もなく勢いよく先頭を走っていた戦車の車輪が次から次へと外れていきます。ぬかるみや、川底の障害物に車輪が取られていったのかも知れません。前にうまく進めないことを知った彼らが引き返そうとした時、主はモーセに言われます「海に向かって手を伸ばしなさい。」

モーセは主の言われた通りにします。海は夜明け前に元に戻ります(:27)。海の中を進行したエジプトの軍勢に水が迫ってきます。そして、馬も戦車も騎兵も、海に入って来た全てが次から次へと海に吞み込まれていきます。イスラエルの人々はエジプトの兵士が海辺で死んで打ち上げられているのを見ます。

ヘブル人への手紙11:29には、「信仰によって、人々は乾いた陸地を通るように紅海を渡りました。同じことを試みたエジプト人たちは、海に呑み込まれてしまいました」とあります。

主はこの日、イスラエルをエジプトの手から救い出されました。

イスラエルの人々は「主の大いなる業」を見ました。

イスラエルの民は、主を畏れ、主とその僕モーセを信じました。

〇 水と血

以前礼拝でヨハネの手紙第一5:6で、「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。」というみことばを読みました。又、イエスご自身が、ヨハネ3:5で「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」、そして、マルコ16:16で「信じてバプテスマを受ける者は救われます」と言われました。

教団によっては、人は救われる為にバプテスマを受けなければならないという教会もあります。私は人救われる条件はただ一つ、行いにあらず、信仰によってのみであると信じます。イエスの言われる「信じてバプテスマを受ける者は」という言葉は、信仰と加えてバプテスマのことを言っているのではなく、信仰のことをいっておられるのだと思います。ヤコブの手紙の中で彼が「行いのない信仰もまた死んだものです」(2:26)と言うのも、信仰に加えて行いを言っているのではなく、行いも信仰だと言っているのだと思います。「人は心で信じて義とされ、口で告白して救われます。」(ローマ10:10)とあります。

では、どうして、イエスを信じる者は洗礼を受けるのでしょうか。一番の理由は、主イエスの弟子たちへの派遣の命令「彼らに父と子と聖霊の名によって、バプテスマ(洗礼)を授けなさい(マタイ28:19)」に従うからです。

旧約聖書は新約聖書の預言であり、雛形です。確かに歴史の中で、小羊の血によって、エジプトの奴隷生活から救われたのです。他のどんな奇跡、力あるわざをもってしても救い出されなかったイスラエルの民は、小羊の血によって救われたのです。これによる以外に、この方による以外に救いはありません。

そして、確かに、海(水)の中を通ってイスラエルの民は救われたのです。水の中を通らなければ、陸地においてイスラエルの人々はエジプトに滅ぼされていたでしょう。

「もはやとこしえに(エジプト人を)見ることはない。」(:13)エジプトとの完全な決別は、水の中を通って実現します。洗礼(バプテスマ)は、紅海を歩いて渡るというより、罪の汚れをきよめの水で洗い流す意味合いに由来することも濃いですが、古い自分、古い生活に死んで、新しい命によみがえることを意味しています。それは、エジプトでの奴隷生活、罪の奴隷生活との決別です。

もう今日から、あなたはエジプトの奴隷、罪の鎖と足枷のつけられた奴隷ではない。罪の鎖は打ち砕かれ、解き放たれ、生ける神である主の子どもとされたのです。

イスラエルは、血と水を通ってエジプトから救い出されました。

私たちは神の小羊であられるイエス・キリストの十字架の贖い、即ち、裂かれた身体、流された血潮は私たちを罪から救う為であると信じています。まだ信じていない人は信じてバプテスマを受けましょう。神である主は、力強い御手をもってあなたを罪の奴隷生活から救い出されます。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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