3月20日(日)礼拝説教全文
「天からのパン、マナ」 出エジプト16:1~5、25~36
参照:ヨハネ6章 「私は天から降って来た生ける(命の)パンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6:51)
イスラエルの大集団は、オアシスのあるエリムを立ち、シンの荒野に入ります。再び何もない荒れ野の旅です。荒れ野でイスラエルの人々は再びモーセとアロンに「不平」を言います。
先週は「水」」についてでしたが、今度は「食べ物」についてです。
「エジプトにいた時には肉もパンも満ち足りるまで食べていたのに、この荒れ野には何もない」というものです。「私たちをこの荒れ野で飢えて死なせようとしているのか」とまで言ってモーセを問い詰めています。
イスラエルの民は、何か困難な出来事が起こりますと、モーセとアロン、そして主に向かって「不平」「つぶやき」の言葉が出ます。主に求めるのではなく、「不平」を漏らします。どうして主に信頼し、求めずに「不平」を漏らすのでしょうか。彼らの主への信仰が成熟していないことがわかります。
どうしてこのような事がわたしに起こるのだろうかという時には、「主よ、私をお助け下さい。あなたの救いを待ち望みます」と祈る者でありたいです。
主は、忍耐をもってイスラエルの民の「不平」を聞かれます。そしてモーセに言われます
「今、あなたがたのためにパンを天から降らせる。」(:4)
モーセとアロンは民に向かって言います。
「夕方には、あなたがたは主があなたがたをエジプトから導き出されたことを知り、朝には主の栄光を見る」(:6~7)。それはどのような栄光か。モーセは「主が夕方にはあなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる」と告げ(:8)、主も「夕方には肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。その時、あなたがたは私が主、あなたがたの神であることを知る。」(12)と告げられます。
主のことばは実現します。主の語られた通りに夕方にはうずらの大群がイスラエルの宿営を覆います。(参照:民数記11:31~)彼らはうずらの肉を腹いっぱい食べます。
朝になると、宿営の周りに露が降りて、地表に霜の様なものがうっすらと積もっています。
イスラエルの人々はそれを初めて見ました。
モーセは「これは、主があなたがたに食物として与えられたパンである」(:15)と説明します。
主が告げられた通りにモーセはイスラエルに、このパンの集め方を指示します。
この指示は主の戒め、律法として命じられたもので(:28)、民が主の律法に従って歩むかどうかを「試す」ためであるとあります。(:4)
① 集めるのは一人当たり1オメル(2.2ℓ=ペットボトル大1本分くらい)ずつ。1オメル=10分の1エファ
② その日のうちに食べてしまい、翌日に残さないこと
③ 5日間、毎日集めて、6日目は2日分を集めること
④ 7日目は、荒れ野に出ないで集めるという働きを止めて、休むこと。この日は「安息の祝い」、「主の聖なる安息日」である。
ところが何ということでしょうか。一人一日1オメルの戒めに従わず沢山集めて、翌朝まで残していた人々がいました。それは虫が湧いて腐っていました。モーセは彼らに対して怒ります。(:20)
また、何ということでしょうか。7日目も荒れ野に出て行ってそれを集めようとした人々がいました。
主はモーセに、7日目はその場所から出ないで自分たちのところにとどまるようにと命じられ、それは主の定められた安息日を守るためでした。
私たちは、人はどこまでも自己中心であり、欲に流される者であることを知ります。どうして主の声、戒めに従わず、指導者モーセの言う言葉に聞き従わないのでしょうか。「不平・不満・つぶやき」と共に「不従順」なイスラエルの人々の罪のパン種が、私たちの内にも膨らまないように、そのように願うばかりです。
さて、この「天から降ったパン」ですが、イスラエルの人々はこれを「マナ(これは何だろう)」と名付けます。(:31)
マナはコリアンダー(せり科の植物)の種のようで、甘い香りと、蜜の入った薄焼きパンのような味で、焼いても、煮ても食べられるものでした。パンは焼きますが、煮るとするなら雑炊のようなものでしょうか。
甘みのあるパン。
主がモーセに命じられ、モーセがアロンに指示します。
「壺に1オメルのマナを入れて代々にわたって保存し(そのマナは腐らない)、証しの箱の前に置きなさい。」
「こうしてイスラエルの人々は、40年の間、カナンの地に入るまで、マナを食べた」とあります。
40年間、毎日天からのパン、マナがイスラエルの宿営に降りました。どのような料理法で、どのような味付けをして食べたかはわかりませんが、栄養価の高い食べ物であったことがわかります。
マナは毎日集めて食べる性質のものです。それは天から与えられる食べ物です。
保存もできませんし、食い溜めもできません、日々新しいマナを食べます。毎日、神から与えられて、命を得る為の食べ物です。毎日、毎日、神の養いの中をイスラエルの人々は進むのです。
神の養い無しに、我らは生きることはできないことをイスラエルは経験したでしょう。
神の民はまさにそうです。神の養い無しには生きることはできません。
私たちの受け取る「天からのパン、マナ」はイエスご自身であり、そして神のことばです。
新約聖書ヨハネ6章で、イエスは5つのパンと二匹の魚を、成人男性だけで5000人の人々に食事としてお分けになりました。そして「天からのパン、マナ」について話されます。
イエスにパンを分けていただき、食べて満腹した経験をした群衆は、イエスに質問しています。「あなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。私たちの先祖は、荒れ野でマナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあります」と。
イエスは「モーセがマナをイスラエルに与えたのでなく、私の父である」と言われます。そして、「私の父が天からまことのパンをお与えになる」と言われます。「私の父、神のパンは天から降って来て、世に命を与える」と言われます。
人々はそれを聞いて「主よ、そのパンを私たちに下さい」と求めています。
イエスが私たちに与えて下さる、神のパン、命を与えるパンとは何でしょうか。
「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)
モーセが荒れ野を導いたイスラエルの先祖たちは、マナを食べて死にました。イエスは、「私が与えるパンを食べるなら、その人は永遠に生きる。」「私は命のパンである。」と言われます。
主イエスは、十字架の上でご自身の体の肉を裂き、ご自身の命を犠牲にして、命を私たちに分けてくださいました。これを食べなさい、と言われます。この命を受けなさい、と言われます。神への「不平・不満」「自己中心」「不従順」の罪を悔い改めて、イエス・キリストを私の内に、私の人生にお迎えするなら、私たちはイエス・キリストを持ち、永遠の命を持ちます
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