3月27日(日)礼拝説教全文
「目の前の岩は裂けて水湧く」 出エジプト記17:1~7
参照:民数記20:1~13(メリバの水) 詩篇106:32~33 Ⅰコリント10:1~13
出エジプト記17章
モーセによって導かれたイスラエルの民は、シュルの荒野で飲み水が見つからず、マラに到着してもそこの水が苦くて飲めないので「飲み水がない」と彼に不平を言い、オアシスの地エリムで宿営した後、出発して、シンの荒野で「食べ物がない」と不平を言い、そこで主がマナと鶉を与えて下さいました。そして、シンの荒野を出発してレフィデムに到着しましたが再び飲み水がなく、「飲み水を下さい」とモーセに不平を言います。
「民はモーセと言い争いになった」と記されています。どんな言い争いだったのでしょうか。モーセは「神である主が与えてくださる。主を信頼して待ちなさい」と言ったのでしょうか。それなのに、イスラエルの民は「飲み水をください。私たちをエジプトから上らせたのは何のためだったのですか。私や子どもたちや家畜を渇きで死なせるためだったのですか」と、モーセに詰め寄ります。モーセを石で打ち殺そうとする勢いです。
モーセは民に向かって「なぜあなたがたは私と言い争う(メリバ)のか。なぜ主を試す(マサ)のか。」と言っています。荒野で主の栄光を見たイスラエルの民。紅海を分け、苦い水を甘くし、うずらが宿営を覆い、天からマナを降らせて下さった主…そのような麗しい主を体験していましても、彼らは再び、不平、つぶやきを発しています。
そこで、モーセは主に叫びます「私はこの民をどうすれば良いでしょうか」。まだ、荒野での旅がスタートして数か月、お手上げ状態です。
主は忍耐をもって、民の不平のことばを聞かれ、モーセに命じられます。
「民の前を通り、イスラエルの長老を何名か一緒に連れて行き、ナイル川を打ったあなたの杖を手に取って行きなさい。私はホレブ(荒涼とした場所・乾き切った場所の意味)の岩の上であなたの前に立つ。あなたがその岩を打つと、そこから水が出て、民はそれを飲む。」(:5~6)
モーセは、長老たち(彼らは不平を言い、民を扇動していた張本人かも知れません)の見ている前で、主が示される岩を杖で打つことを命じられます。モーセが岩を杖で打つと、水が噴き出しました。(日本にも、世界にも、岩から水が噴き出す間欠泉のような場所があります)きっと目を見張る様に、勢いよく水が吹き上がったのではないかと想像します。
モーセはその場所を「マサ」と「メリバ」と名付けます。マサは「試し」、メリバは「争う」という意味です。
イスラエルの人々が「主が私たちの間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからだと記されています。
「主が私たちの間におられるのかどうか」…このような水も食べ物もない場所に主が私たちを導かれるのか。主は本当に私たちを助けてくださるのか。水を願えば水をいつも与えていただけるのか。モーセとアロンは指導者としてふさわしいのか。民の心は疑い・不信感でいっぱいです。
民数記20章
それから40年後、この「岩を杖で打って水が出た」出来事は、民数記20章にも起きています。ツィンの荒れ野のカデシュでの出来事です。そこでもイスラエルの民はモーセとアロンと言い争い(メリバ)を繰り返しています。40年間ずっと不平を言っていたイスラエルの人々の姿がここにあります。主はモーセに「杖を取り、会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、『水を出せ』と命じなさい」と言われます。ところが、モーセは集まった民の前で、「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか」と言って、手を上げ、杖で岩を二度打ちます。
「私たちがあなたがたのために」と彼が言うことは、岩から水を出すのは、モーセとアロンであるという意味でしょうか。
また、主は「岩を杖で打て」と命じられたのでしょうか。
「岩から水がたくさん湧き出た」とあります。
主はモーセとアロンにこう言われています「あなたがたは私を信じることをせず、イスラエルの人々の目の前に、私を聖としなかった。それゆえ、あなたがたは、私が彼らに与えた(約束した)地にこの会衆を導き入れることはできない。」(民数記20:12)
詩篇106:32~33にはこうあります。
「彼ら(モーセとアロン)はメリバの水のほとりで主を怒らせ、それゆえにモーセに災いが起こった。それは彼ら(イスラエルの民)がモーセの霊に逆らったとき、モーセが唇で軽率に語ったからで。」
民数記でのモーセの言葉と行動は、主を聖とするものではありませんでした。
本日のマサ、メリバでの経験から、モーセはカデシュでも同様に杖で岩を打ったのでしょう。それも二度打っています。このモーセの言葉と行動によって、モーセは主の約束の地カナンに入ることができなくなります。
モーセは謙遜と忍耐の人です(民数記12:3)。たった一度の失敗のゆえです。しかし、主の「聖」は一点の曇りもありません。完全が求められます。
人は律法を守る事、行いを積み重ねて、完全になることはできません。モーセもアロンも、多くのイスラエルの民もカナンに入ることができなかったのです。
第一コリント10章
パウロは、コリント人への手紙で、モーセが杖で打った「水の噴き出した岩」をキリストである、と霊的解釈をしています。とても興味深いものです。「この岩こそキリストだったのです」(第一コリント10:4)。
今、私たちは岩を打ってもらって、水を頂いているのではありません。しかし、神の民には、霊的な食物である天からのマナと共に、霊的な飲み物「命の水」が必要です。
パウロは、主イエス・キリストが十字架の上で釘を打たれて流された血潮と、ローマの兵卒がイエスの脇腹を突き刺して流れ出た「血と水」とを、モーセが杖で叩いて噴き出した水と重ねていたようにも思われます。
そして、「この岩はキリストである」と言いました。
これからメッセージの後に私たちは「目の前の岩は裂けて水湧く」を賛美いたします(新聖歌340)。この賛美を主に歌う度に、十字架の上で血を流された主イエスを見上げましょう。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ6:54、55)
モーセはその杖で岩を打ち、岩から水が流れ出ました。その水を飲んでイスラエルの民は命を得ました。
十字架の上で、私たちの岩なる主イエスは打たれ、血潮を流されました。私たちはその流された血潮を受けて、私たちの背きの罪、過ちは赦され、永遠の命を得ます。
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