4月3日(日)礼拝説教全文
「祈りの手を上げ続けよ」出エジプト17:8~16(ウクライナとロシアの停戦の為に)
参照:(創世記14:7) 創世記36:12 申命記25:17~19
聖書を通して、その聖書箇所の背景を知ることができます。並行記事や引照を参照しましょう。
本日の聖書箇所はイスラエルがアマレクと戦ったことについてであります。アマレクは、エサウの孫であり(創世記36:12)、遊牧民エドム人の先祖です。
一方、イスラエルの民はヤコブの子孫です。エサウもヤコブもアブラハムの息子イサクに生まれた双子の兄弟でした。血のつながった者同士の戦いでした。
アマレクと戦争状態になった原因については、申命記25:17~19に記されています。
「エジプトを出発して疲れ切っているイスラエルと出会い、後方の弱い者に背後から襲って略奪して神を畏れる事がなかった。」同じアブラハムの子孫で兄弟関係にあるにも関わらず、このような罪を行いました。
アマレクは遊牧の部族であるので、レフィデムでイスラエルと遭遇したことがわかります。
初めての戦い
モーセはヨシュアに言います。
ここで初めてヨシュアの名が出て来ます。彼は後にモーセの後継者となり、40年の荒野での放浪生活に終止符を打ち、イスラエルの民を率いてヨルダン川を渡り、カナンの地に入る人物です。ヨシュア記には、彼のカナン征服と土地分割が記されています。
ヨシュア=エフライム部族、ヌンの子ホシェア(民数記13:8)。モーセは彼を「ホシェア」((彼は)救いの意味)から「ヨシュア」(主・ヤハウェは救いの意味 ギリシア語=イエス)と呼びました(民数記13:16)。モーセがなぜそのように読み替えたのか、それには意味があります。救いを与えるのは、誰かではなく、先祖の仕えて来た神である主(ヤハウェ)だからです。
モーセは彼に「私たちのために男たちを選び、アマレクとの戦いに出陣しなさい。明日、私は神の杖を手に持って丘の頂に立つ」と言い、ヨシュアが陣の指揮を執って戦いに出ます。
この時代の戦いは、剣と槍、鎧と盾という感じでしょうか。イスラエルはエジプトでの奴隷生活を強いられていましたから、戦いに慣れていた民であるとは言えません。武具もどれくらいあったのかもわかりません。陣を敷いて、攻めたり守ったりの古典的な戦いであったと思います。
モーセは、アロンとフル(「高貴な」の意味、ユダ部族 出エジプト31:1)と共に丘の頂に登ります。フルに関しては聖書の中に多くは出て来ませんが、アロンと共にモーセの側近としてモーセの代わりに民や部族の長老たちの訴えを聞く者として任じられています(出エジプト24:14)。モーセは、エフライム部族のヨシュア、ユダ部族のフルを、部族を限定せず、彼を支える為に、主の働きの為に任命したことがわかります。決して世襲ではありません。
このモーセが立った丘の頂は、イスラエルとアマレクの戦いが一望できる場所であったと思われます。
モーセは神の杖を持って、丘の頂で祈りの手を上げます。
この戦いに勝利する為にです。戦いは激しさを増していきます。彼が手を上げている時はイスラエルが優勢になり、手が下がるとアマレクが優勢になりました。モーセは疲れて手が上がらなくなってきます。それで、アロンとフルは石を持って来てモーセを座らせ、モーセの両手を、片方はアロンが、もう片方はフルが支えます。日が沈むまで、モーセの腕はアロンとフルに支えられて上り続けます。祈りの手は下がることがありません。
ヨシュアが率いるイスラエルは、ついにアマレクを剣をもって打ち破ります。
大勝利がイスラエルにもたらされます。
主はモーセに言われます「このことを書物に書き記して記念とし、ヨシュアに読んで聞かせなさい。私はアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る」。厳しい神の裁きがアマレクに下されているのがわかります。
モーセは祭壇を築き、その祭壇を「主はわが旗(アドナイ・ニシ)」と名付けます。「旗」は「国旗」と言うよりも「軍旗」という意味で、これを辞書で調べますと、「戦場で主将の所在を示す旗」と書かれているものがあります。モーセは、祭壇の名前を通して主ご自身が我らの戦いの大将であるということを示して言います。
「主の座に刃向かう手《「上にある手」(新改訳2017)、「主の旗に向かって手を上げる」(口語訳)》。アマレクと主は代々に戦われる。」
モーセの杖=神の権威の象徴。祈りの手を上げるモーセの手にある杖は、その願いを聞いて頂く為のお墨付き。
今日私たちが、神の杖を手に持って祈りの手を上げるのは、「キリストの御名によって」祈ることではないでしょうか。どんな権威にも優って、キリストの御名には力があります。
アロンとフル=祈りを共にして支える聖徒です。
イエスは、マタイ18:19~20で、どんな願い事でも、私の名によって、二人または三人が地上で心を合わせるなら、私の父はどんな願い事もかなえて下さる、と言われています。
一人で祈ることも大事ですが、二人、三人は更に…です。
霊的な戦い(麓の戦いと、丘の上の戦い)
全ての目に見える敵・壁・困難・試練・誘惑との戦いは、目に見えない場所での戦いによって決まります。それが霊的な戦いです。実際に戦っているのは、ヨシュアと戦いの為に招集された男たちです。彼らも一生懸命に麓で戦っているのです。しかし、私たちは同時にその背後・丘の上で、モーセが祈りの手を上げているのを見ます。勝利するまで祈りの手を下してはならないのです。肉体は疲れを覚え、弱い者です。それゆえに、片方をアロンが、もう片方をフルが支えます。そのようにして「祈りの手を上げる」ことこそが勝利の要なのです。
人間的な知識や才能や賜物、体力や武力、能力によって、成功する人も、夢を自己実現する人もいるでしょう。しかし、神の目に適う勝利は、祈りなしには決してありません。
20世紀最大の伝道者、リバイバリストと言われたビリー・グラハムは、彼が世界各地で説教の御用をする時、その説教中、説教が祝福される様に祈りで支えているチームがいつもあったそうです。彼は自分が大説教家であるとは思っていなかったでしょう。彼一人では成し得なかった。アロンとフルが常にいたのです。
私は皆さんに何か自分が益となる為に、「牧師の為に祈ってください」「牧師が聖霊を受けて祝福される様に祈って下さい」と言っているのではありません。教会の牧師や、立てられた主の働き人の祝福の為に祈る祈りは、皆さんに、皆さんの家族に、皆さんの周りに、必ず神の祝福として返って来ます。
信仰者の戦いの勝敗は、祈りによって決まります。
サタン(悪魔)の勝利は、私たちが祈りの手をおろした時から始まります。
*(ウクライナとロシアの停戦に向けての祈り)
哀歌2:19
「立って、夜回りの始まる時に叫べ。主の前で、心を水のように注ぎ出せ。幼子たちの命のために、主に向かって両手を上げよ。彼らは街角の至るところで、飢えで弱り果てているのだ。」
エルサレムがバビロンによって、戦争によって滅ぼされた時、エレミヤは荒廃した街を見て、又、思いを馳せてこのように歌っています。今もなお、ウクライナとロシアの戦争は激しく続いています。戦争による死者数の中に、必ず子供の死者の数が公表されます。ウクライナにおいて戦争で失われた子供の命百数十名。将来のある子どもたち。戦争によって決して失われてはならない私たちの未来そのものです。その悲惨さは、哀歌にも「幼子たちの命のために祈れ」と歌われています。子どもたちの泣いている姿、飢えている姿は、本当に心が痛みます。
戦争・飢餓・自然災害・疫病等によって誰の命も奪われてはなりませんが、特に、最も弱い立場にある子供たちの為に祈りましょう。
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