4月17日(日)イースター礼拝説教全文
「墓を訪れた女たち」 ルカ24:1~12 イースター礼拝 召天者記念礼拝
参照 ルカ8:1~3 ガリラヤからイエスに従って来た女たち
ヨハネ19:25 十字架のそばにいた女たち
ルカ23:55 埋葬の場所を見届けた女たち
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書に、イエスの十字架、復活、顕現(復活のお体を人々に現された)の記事があります。パウロはコリント人への第一の手紙15章1~4節で、イエスについて伝えるべき「福音」の最も大切な内容は、「キリストが聖書に書いてある通り私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活されたこと」…そして弟子たちや多くの人達に現れられたことであり、最後に彼にも現れてくださったと言っています。
本日のイースター礼拝のメッセージは、先週の礼拝で十字架の出来事を読みましたのと同じ、ルカによる福音書から聞きたいと思います。
四つの福音書は口を揃えて告げています。イエスの復活の出来事は、「週の初めの日、明け方早く」です。日曜日の日が昇るか昇らないか、まだ薄暗い朝早くの出来事でした。そして、イエスに従って来た女たちが、イエスの埋葬を完成する為に、準備を整えて(香料を携えて)墓に赴いたということです。
ユダヤ人は土曜日の安息日は何も仕事をしてはならないので、安息日が明けるや否やの早朝であることは、女たちは一刻も早くイエスの埋葬の整えをしたいと願っていたからでしょう。イエスを心から慕い、愛してイエスに従って来た女たちです。
イエスの生涯において、イエスに従ったのは十二弟子をはじめ男性たち、そして多くの女性たちもイエスに従っていたことがわかります。イエスが墓に納められました時にも、「イエスと一緒にガリラヤから来た女たちは・・・」(ルカ23:55~56)とあります。遡って十字架の傍らにも「イエスの十字架の傍には、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(ヨハネ19:25)。さらに遡って、ガリラヤでのイエスの宣教では「12人の弟子も一緒だった。・・・七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令のクザの妻ヨハナ、それにスザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた」とあります(ルカ8:1~3)。
ルカによる福音書では、日曜日の朝、墓を訪れた女たちは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった」とあります。
これらの女性はイエスの公の宣教の初めの頃からずっとイエスの傍にいて、イエスに従って来た人たちです。イエスの時代のユダヤ社会では、女性や子供が数に数えられることすらなかった時代でしたが、十字架においては、イエスの弟子たちは逃げるという不名誉な結果を招いていますが、女性たちは恐れず、いつもイエスの傍らにいたことがわかります。
さて、彼女たちがイエスの遺体が納められた墓に到着しますと、予期もせぬ出来事が起こっています。墓を閉じていた大きな石が転がしてあり、墓の中にはイエスの遺体は見当たりませんでした。彼女たちはただ途方に暮れていました。墓は開き、イエスの死んだ亡骸はどこにもありません。
彼女たちが「先生」と呼び、敬愛してずっと従って来たお方、そのお方が、2日前、残酷な十字架の刑を受けられ、死なれ、墓に葬られました。その十字架のお姿ははっきりと彼女たちの目に焼き付いていたでしょう。その衝撃は言葉に表すことができません。希望を失い、悲しみに暮れていた女たちでした。その上に、イエスの亡骸さえも誰かに持ち去られたのです。「途方に暮れていた」という言葉は、思いもかけない出来事にどうしてよいのかわからなかったという意味で片付けられないものがあると思います。目の前が真っ暗になる…暗闇の中に突き落とされるというものでしょう。
その「途方に暮れた暗闇」の中で、私たちは聞くのです。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」、と
二人のみ使いが彼女たちのそばに立って、彼女たちに告げます。
あなたがたが慕い愛し、従って来たお方は、死者の中におられない。墓にはおられない。復活なさったのです。
死者の中にいない。墓にはいない。
私たちも墓の前に立って、聞くのです。亡くなられた方は死者の中にはいない。墓にはいない。
どうしてそのように言うことができるのか。私たちの主、イエス・キリストがよみがえられたからです。
私たちの逃れることのできない定めである「死」に対して、唯一、死の暗闇を希望の光に変えるのは、主イエスの復活であります。私たちの罪のために死んで、よみがえられたイエスこそが望みであります。
「ガリラヤからずっとイエスに従って来た女たちよ。思い出しなさい」と御使いは告げます。
「(イエスが)まだガリラヤにおられた頃、お話になったことを。『人の子は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する』と言われていたことを思い出しなさい。」
イエスはそのご生涯の中で3度、ご自身の死と復活を予告しておられました。
聖書協会共同訳見出し マタイ20:17、マルコ10:32、ルカ18:31
ルカによる福音書における、イエスの死と復活の予告
① ルカ9:22~27 〈イエス、死と復活を予告する〉 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排除され殺され、三日目に復活することになっている」「自分の十字架を負って、私に従いなさい」
② ルカ9:43~45 〈再び自分の死を予告する〉
③ ルカ18:31~34〈イエス、三度死と復活を予告する(非常に具体的に)〉しかし、「十二人は、これらのことが何一つわからなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」
三度も、イエスはご自身の死と復活について弟子たちにも、女たちにも語っておられたのです。
「女たちはイエスの言葉を思い出した」とあります。
彼女たちは急いで墓から戻って、十一人の使徒とイエスに従って来た人たち皆に一部始終を知らせます。
イースターの朝、私たちも主イエスの復活の知らせを聞きます。
復活の知らせを聞いた使徒たちをはじめ、イエスの弟子たちはどう反応したでしょうか。「彼らは信じなかった。」「信じなかった。」「信じなかった。」とあります。ルカによる福音書では「まるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった」とあります。イエスの一番弟子のペトロは墓に走って行って、中をのぞくと、その墓は確かにイエスのからだはなく、イエスに巻かれていた亜麻布だけしかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰ったとあります。
イエスの復活の知らせを聞いても、誰も信じなかったのです。ですから、はじめて福音を聞く者にとっては、私たちにとっても、信じられなくて当然の出来事なのです。しかし、信じない彼らに、イエスはご自身を何度も現わされます。これで終わりますが、ヨハネによる福音書では、絶対に信じないと宣言した、使徒のトマスにもイエスはご自身を現わされます。イエスは心を頑なにしているトマスに、愛の眼差しで言われます「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)。
「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)
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