5月1日(日)礼拝説教全文

「鷲の翼の上に乗せて」 出エジプト記19:1~9

19:4 「私がエジプト人にしたことと、あなたがを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れてきたことをあなたがたは見た」

聖書協会共同訳聖書見出し 「シナイ山に着く」

モーセとイスラエルの人々は、シナイ半島を南下して、いよいよシナイの荒野に入り、神の山ホレブ(出エジプト3:1)(シナイ山)の麓に到着します。そしてシナイ山の前に宿営します。ここはモーセがかつてエジプトへ遣わされる前に、燃える柴で主にお会いした場所です。イスラエルの民は今、初めてこの山において圧倒的な主の臨在に近づこうとしています。

モーセはひとり神の山に登って行きます。主はモーセに山から呼びかけられます。

神である主は、どこでもモーセに語っておられますが、このシナイ山は特別な場所、主が臨在される聖なる土地です。主は私のいる場所に来て下さるお方ですが、私たちもまた主のおられる場所「聖地」に近づいて行くのです。モーセの率いるイスラエルの民は主に導かれて、モーセが履物を脱いだ聖なる山(出エジプト3:5)を目の前にして宿営します。

「聖なる土地」とは、主なる神がその地に降り立たれた土地・場所であるから、そう呼ばれるのであって、

聖なる土地に主が降り立たれたからというのではありません。

シナイ山は、かつて神がモーセの前に降り立って会見された場所でした。

日本でも「巡礼」という習慣がありますが、「巡礼」を辞書で引きますと、「宗教上、神聖な場所と崇敬されて巡礼者が訪れる地、教会など宗教施設を指す」とあります。「聖地」とは私たちにとってどこであり、私たちの人生にどのような意味・影響をもたらすのでしょうか。

教会は、人の目に見える建物や、その場所自体が聖いわけではありませんが(主の臨在は特定の場所ではありません。なぜなら昼は雲の柱・夜は火の柱、いつも主の臨在がイスラエルの民と共にあったのですから)、私たちキリスト者にとりましては、目に見えない主が、特別に御臨在を示して下さる聖い場所と受け止めています。詩篇には「都もうでの歌」というものがありますが、エルサレムの神殿に多くの離散したユダヤ人が毎年、又は何度も巡礼したことがわかります。

教会はエクレイシア、「呼び出された者の集まり」という意味があります。召し集められるということは、私たちが主のもとに呼ばれ、近づく、赴くことを意味します。来ていただくのではなく、私たちが出掛けて行くのです。

昔アブラハム、イサク、ヤコブに子孫の繁栄を約束された神である主のもとに、今、200万人もの契約の民が、主を礼拝し、仕える為にその御前(シナイ山の前)に集っています。エジプトを去る前、主はモーセを通してエジプトの王パロに命じられました、「イスラエルの神、主はこう言われる。『私の民を去らせ、私のために荒れ野で祭りを行わせなさい。』」(出エジプト5:1)祭りとは、主にいけにえをささげ、主を礼拝し、主に仕えることです。

もう一度言いますが、イスラエルの民は今、初めて、この山において、主の圧倒的な臨在に近づくことになります。

主はイスラエルの民をどのようにご覧になっておられたでしょうか。

主はモーセに「ヤコブの家に言い、イスラエルの人々にこのように告げなさい」とイスラエルの人々に語るべき事柄を伝えられます。

「私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。」神である主はいつもイスラエルと共におられたのですが、「私のいるこの場所に連れて来た」と言われています。「鷲の翼の上に乗せて」は、とても詩的な、愛に満ちた優しいことばです。

申命記29:4にこのような主の言葉があります「私は40年の間、荒れ野であなたがたを導いたが、あなたがたの着ている服は擦り切れず、足の履物も擦り減らなかった」40年間、荒れ野で、履物が擦り減らないことがあるのだろうか…と思わされますが、「鷲の翼の上に乗せて」の表現に通じるところがあります。荒野は民にとって実際、過酷な道のりだったでしょう。私たちの人生も、世界も時に過酷です。しかし、主に従って歩いて来た道のりを振り返る時、その過酷な道のりも、「鷲の翼の上に乗せて」主は私をここまで導いて来て下さいました、と心から言う事が出来るのです。それが主に従う人生であり、道のりなのです。

* 「足跡」 マーガレット・パワーズの詩

「それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。」

主の声に聞き従い、主の契約を守る。主イエスに従い、主イエスの新しい契約に生きる。

私たちは真剣に、真摯に、この主のおことばに向き合いたいものです。

自分の考えや、世の中の基準ではない。主の声、主の契約こそ、私たちの歩むべき道、なすべき行いなのです。

間もなくイスラエルの民は、19章後半で主に会う備えをして、20章で十戒のことばを受け取ります。

十戒は、キリストによって神の民とされた私たちにとっても、変わらない歩むべき道、なすべき行いです。律法の要です。神を愛し、人を愛そうと願う者は、十戒に従います。

「私の宝となる」とはなんと嬉しい主のおことばでしょう。

私たちひとりひとりを、主は高価で尊いとおっしゃってくださいます。

そして「宝となる」ばかりか、「あなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる」と言われます。

「祭司の王国、聖なる国民になる」、とはどのような者になるという主の約束でしょうか。

「聖書をもって聖書を知る」と以前に話しましたが、第一ペトロ1:9「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」その理由と使命は、「それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。」

かつては闇の中を歩いていましたが、今や私たちは、キリスト・イエスによって、神の憐みを受け、いさおのないままに神の子とされ、驚くべき光の中へと招き入れられているのです!私の命、光であり、偉大な力あるお方の顕現を、私も受け取り、受け入れた。よみがえられた主イエス・キリスト、このお方を、私たちが周りの闇の中にいる人々に広く伝えるためなのです。それが「祭司の王国」「聖なる国民」のあるべき姿なのです。

モーセは、民の長老たちを呼び寄せ、主のことばを全て伝えます。

民は皆、その言葉を聞き、口をそろえて「私たちは、主が語られたことをすべて行います」と答えます。どんな思いでこの言葉を、口をそろえて告白したのでしょうか。モーセは民が答えた言葉を主に告げます。

すると主はモーセに言われました。「私は密雲に包まれてあなたのもとにやって来て、私があなたと語るのを民が聞く。」これ以後の主とモーセとの会見は、民が畏れを抱いて震えおののくような主の圧倒的な顕現となり、イスラエルの民にご自身を示されます。これを通して民は、モーセがまさに主と語って自分たちに告げているのだと、モーセを信じるようになります。

それまでは長老や民の中には、モーセに不信をいだいていた者が少なからずいたのかも知れません。

「あなたがたは『私の宝』『祭司の王国』『聖なる国民』となる。」主イエス・キリストによって贖われたあなたに、宣言して下さる主のおことばをこの朝受け取りましょう。神のことばは、みことばを信じる者の上に実現します。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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