5月8日(日)礼拝説教全文
「あなたがたはキリストの体」 第一コリント12:12~31
本日は礼拝後に2022年度の教会総会が開かれます。教会の一年の節目の日です。
昨年2021年度は、勝田台キリスト教会の創立50周年となり、50周年記念誌を作成し、又、不思議な導きにより、教会墓地を建てることができました。さて、「新年度はどのように教会は、主に喜ばれる取り組みをしていけばよいですか」、と問う中で、今、私たちの所属する日本ホーリネス教団でも新しい任命制度の中であげていますし、勝田台キリスト教会でも長年のビジョンとしてあげて来ました「信徒主体の教会形成」に注目し、具体的に、実践的に取り組んでいこうと示されています。
教団主体から教会主体に、又、牧師主体から信徒主体(信徒主体といっても、牧師と信徒が共にという意味で)へという、しっかりと舵取りをしていくということです。
どのようであれば、「私たちの教会は、信徒主体の教会です」と言えるでしょうか。
それは私たちひとりひとりが、キリストの体の部分・肢体・枝である自覚をもって、活き活きと教会に仕える、奉仕に取り組むことであると思います。
本日は第一コリント12章を開いていますが、ここでパウロはわたしたち(教会)を「キリストの体」と表現しています。聖書協会共同訳見出しは「一つの体、多くの部分」と見出しが付いています。人体を考えますと、一つの体には、様々な部分があります。足があり手があり、耳があり目があります。それぞれが繋がってひとつの体です。どこかの部分が独立して「私は体の一部ではない」とも言えないですし、どこかの部分がどこかの部分に対して「いらない」とは言えません。又、みんなが同じ部分ではありません。それぞれに役割があります。「キリストの体の部分として」教会に仕える、その祝福に耳を傾けたいと願っています。
1、キリストの体の部分として、永遠の命に結ばれた共同体
ある人が「先生、どうして教会に行かなければならないのですか」と質問しました。彼は教会へ行くより、一人で信仰生活を送っていきたいと考えていたようです。目が開かれるという言葉がありますが、彼がその答えを見出したのは、ある礼拝で語られた「教会はキリストの体です(エペソ1:23)」というみことばによってでした。聖餐式の終わりの祈りにもありますように「私たちがキリストの体の枝である自覚がますます深くなり」という経験です。
キリスト者であるというあなたは、どれくらい自分自身が「キリストの体の部分」であるという自覚を持ってキリストに、そして教会に仕えているでしょうか。
私たちが「キリストの体での部分」であるという恵みは大きなものです。それは第一に、主イエス・キリストに生命的に繋がっているという祝福がもたらされています。いつも、キリストの愛が、力が、そのお心が、その命が、聖霊によって(キリストの霊によって)私たちに流れ込んでいることを知ります。私たちはキリストから離れては何一つ、神に喜ばれる歩みも働きもできません。
聖餐式における、キリストの体であるパンと、血潮であるぶどう酒をいただくという事は、私たちがキリストの命、そのお方と一つとされていることを意味します。死すべき私たちの体の内に、キリストのよみがえりの力、永遠の命を持っていることを教えます。キリストの流された血潮は、信じる私たちの内にある罪を赦し、汚れを聖め、永遠の命を与えるのです。
教会の奉仕に励む、また、キリストの体の働きを担う部分であるという前に、キリストの体に結ばれた、救いの恵みを覚えましょう。それこそが喜んで、又、力強く主に仕えて行くことの源になります。
2、キリストの体の部分として、共感する共同体
体はひとつですが、体は多くの部分から成り立っています。そしてそれぞれの部分同士も繋がっています。
・ いらない部分はひとつもない。教会には私は必要ないとか、あなたは必要ないという人はひとりもいません。それぞれがかけがえのない、ひとりひとりです。これはキリストの愛によって結ばれている共同体であることを私たちに教えます。
・ 一つが痛めば、全体が痛む。ひとつが喜ばれれば、全体が喜ぶ。
共に喜び、共に泣く。指一本が痛くても、体全体で共鳴する。これはキリストの愛によって結ばれている共同体であることを私たちに教えます。
誰も彼もが互いに無関心であるなら、それは決して教会とは言えません。
・ むしろ弱い部分、助けが必要としている部分こそが、かえって尊い者とされる。
(世の中では、役に立たない者は、取るに足らないとし排除されやすい社会でありますが)
これはキリストの愛によって結ばれている共同体の姿です。
* 教会で、社会的な弱さ(家族の支え・社会の支援なしに生きられない人)を抱えている人は、教会の宝です。聖書の社会的弱者の主な三種類の人は、異邦人・親のない子供・身寄りのない寡婦。
3、キリストの体の部分として、役割を担い合う共同体
体はひとつですが、部分は多くあります。
神は、その働きの為に、教会の中でいろいろな人をお立てになります。
使徒、預言者、教師、奇跡を行う者、癒しの賜物を持つ者、援助する者、管理する者、種々の異言を語る者などです。
皆が同じ賜物をもっているのではありません。
そして、もっと大きな賜物を熱心に求めなさい。
牧師、役員、教会学校の教師、会計担当者、事務担当者、祈りの奉仕者、礼拝の奉仕者、集会を計画する者、チラシや文章を作成する者… それぞれが賜物に応じて、キリストの体の部分としてその奉仕・働きを担う。「キリストの体の部分(枝)として」これが新年度の指針です。
私はオルガンやピアノは弾けません。お花を生けることはできません。外国の方が来られたら、英語で話すことができません。賜物が必要とされることがあります。しかし、賜物を求め、身につけることもできます。自らの賜物をしっかりと教会で生かしましょう。教える賜物を神様からいただいている人は、是非、聖書研究の働きをしてください。賛美の賜物があるかたは、是非、賛美をリードしてください。祈りの賜物のある方は、是非、祈り会を霊的に導いて下さい。子供が大好きという賜物のある方は教会学校の働きをしてください。スポーツや料理や裁縫やお茶やお花や書道や賜物のある方は、その賜物を教会で生かして用いて下さい。
写真の賜物のある方は、教会の記録を写真に撮ってください。
お掃除や、片付けの好きな方は、是非、教会を綺麗にしてください。修理の賜物のある方は、教会の壊れた物品を直してください。音響や電機関連に賜物のある方は、PA〈音響装置操作〉やネット関連の奉仕をしてください。
あなたの賜物を生かして用いて下さい。キリストの体の部分として。
私は1月から、「私の目の前に常に主を置く」ことを、祈りの時、賛美の時、聖書を読む時、礼拝の時に心に留めて、黙っておことばを受け止めて、行っています。新年の指針です。
この年度の指針として、取り組んでみましょう。実践してみましょう。どのような奉仕に携わる時も「私はキリストの体の部分として、この奉仕を行います」と祈って臨んでみましょう。この一年、私は「キリストの体の部分」であるという自覚が深められ、キリストに活き活きと従っている実感の中で、信仰生活を、教会生活を歩む事ができますように。
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