5月15日(日)礼拝説教全文

「主に会う備えをせよ」 出エジプト記19:10~25

参照: 「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」ローマ12:1

エジプトを脱出したモーセ率いるイスラエルの民は、シナイの荒れ野、シナイ山の前に到着します。

神である主は、この場所、即ち、「私のもとへあなたがたを連れて来た」と語っておられます。

出エジプトとは、文字通りエジプトでの苦しい奴隷生活から、神の民イスラエルが解放されたことです。同時に、先祖に約束しておられたカナンの地を継がせることです。しかし、出エジプトの大きな目的の一つに、「荒れ野で祭りを行う」(出エジプト5:1)ことがあります。

神の山ホレブ(シナイ山)の麓に宿営しているイスラエルの民は、今、ここで主の前に祭りを行い、主に仕えようとしています。そして、主はこれからイスラエルの民の前に、ホレブ山からそのご臨在を顕そうとしておられます。

1、準備せよ(:10~15)

イスラエルの人々は主にお会いする為に二日間(今日と明日)の準備をします。三日目に主がシナイ山に降(くだ)られます。

イスラエルの民にはどんな準備が必要だったのでしょうか。

幾つかの準備がありますが、一言でいうならば、「聖別」です。主の前に立つためには、自らを聖別せよということです。

1 服を洗う

2 山の周囲に境界線を設ける  境界線に触れた者、越えた者は、人も家畜も殺される

3 雄羊の角笛の合図が鳴ったら、山に登ることができる

4 女に近づいてはならない

5 祭司たちも身を清めなければならない

自らを「聖別」して神の前に立つ。これらの準備は私たちに何を教えているでしょうか。

・服を洗う、身を清める

神の御前に立つ前に、襟を正す、へりくだって姿勢や衣服をきちんと直す。それまでの態度を改めて、気持ちを引き締め直して物事にあたる。姿勢を正す。

・境界線を設ける

神を畏れる、軽んじてはならない。その名をみだりに唱えてはならない。

・女に近づいてはならない

主に会見することにのみ心を向ける。一心に。世に埋没してしまわずに、全ての日常の営み、仕事から離れる。

日常生活から、主に心を向ける  集中=ルーティン(きまった手順)

* 証詞一例 土曜日に風呂に入り、洗濯したシャツを着る 

2、圧倒的な恐るべき主の臨在

三日後の朝、雷鳴、稲妻、厚い雲が山の上に臨んだ。

角笛の音が極めて力強く鳴り響いた(主が来られる合図の角笛)。間もなく、神である主が来られる!

宿営にいた民は皆、震えた。

モーセは民を宿営から連れ出し、山の麓に立った。


シナイ山は山全体が煙に包まれていた。

主は火の中を通って、山の上に降り立たれた。

煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。

角笛の音がますます力強く鳴り響いた(主が地に降りて来られた合図の角笛)。

モーセが語りかけると、神は雷鳴で答えられた。

主はシナイ山の頂に降り立たれた。

主はモーセを山の頂に呼び寄せて言われました。

「民は私に近づいてはならない。民が命を落とすことのない為に、このことを民に厳しく命じなさい。」(既に境界線は設けられていましたが、不遜な者がそれに触れたり、越えたりする恐れがあったからです。)

そして、「祭司であっても身を清めなければならない。打ち滅ぼされない為に。」と言われ、全員に「山に境を設け、これを聖別せよ」と命じられ(:23)、モーセとアロンだけが山を登って来なさい、と言われました(:24)。

3、主に会う備えをせよ

主に会う備えは「聖別」です。「聖別された者」だけが主の前に立つことができます。

礼拝の本質は、主の臨在の前に立ち、主と会見する(お会いする)ことです。

今、この礼拝で主の臨在の威光が、このシナイ山で起きた様に顕されたら、どんなに恐ろしいことでしょう。

しかし、やがて私たちは必ず、主の御前に顔を合わせて立つ時が来ます。(礼拝は既にそれを経験している場であります。天の幕屋の雛形です。)

その時、聖い者でなければ、一瞬にして打ち滅ぼされることとなるでしょう。

「今、自らの人生の終わりが来たなら、あなたは主に会う備えができていますか。」ビリー・グラハム師が、人々を神のもとに招く為によく使っていた言葉です。

罪深い汚れた私たち、誰が、主の御前に立つことができるでしょうか。

知って下さい。それは「小羊イエスの血によって洗われた者」です。

私たちは、「御子イエスの血によって、あらゆる罪から清められます」(第一ヨハネ1:7)。「たとえ、罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(第一ヨハネ2:1)。

御子イエス・キリストを信じる。その十字架の贖いを信じて、神の救いを受け取る。イエスが十字架で血を流し、命を捨てられたのは、私の罪を赦し、清める為であったと信じるなら、直ちに救われるのです。

「イエスよ、あなたこそ私の救い主です。」と告白する。今、そして日々を歩む事が、「聖別」の道であり、主に会う備えなのです。私たちの救い主イエスをほめたたえ、賛美し、歌いつつ日々歩みましょう。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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