5月22日(日)礼拝説教全文

「あなたの神を愛せよ」 出エジプト記20:1~17 -十戒・前半‐

参照:「あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」マタイ22:34~40

キリスト教の障碍者施設を訪問した時に、悩んでいる方がいるのでお話を聞いて欲しいと言われました。その方は私に「私はずっと両親に面倒をかけ、人のお世話になって今まで来ました。何も私はできません。自分は何の為に生きているのかわかりません。先生、人は何の為に生きるのですか」と言いました。その方の切実な悩みに、咄嗟に言葉は出ませんでしたが、「イエス様は、人にとって最も大切なことは、『神を愛し、人を愛すること』だと言われました。人にとって一番大切なことはそれではないでしょうか。私にとってもあなたにとっても最も大切なのは、『神を愛し、人を愛すること』だと思います」「まず、お世話になったお父さん、お母さんに感謝しましょう。助けていただいた方に感謝しましょう。ありがとうという気持ちを神様に、又あなたの周りの人に心から表すことだと思います」とお話しし、一緒にお祈りしました。

本日はモーセが神の山ホレブで神である主から「十戒」を受け取る箇所です。

ホレブ山に向かって立つ民は皆、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音と山が煙る圧倒的な主の臨在を目の前にします。民は見て震えおののき、遠く離れて立っています。神である主は、十戒(10の戒め)を民に与えられます。

プロテスタント(2-3,4-6,7,8-11,12,13,14,15,16,17)    

1「あなたは、私をおいて他に神々があってはならない」  

2「あなたは自分のために彫像を作ってはならない」    

3「あなたは、神、主の名をみだりに唱えてはならない」

4「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」

5「あなたの父と母を敬いなさい」

6「殺してはならない」

7「姦淫してはならない」

8「盗んではならない」

9「隣人について偽りの証言をしてはならない」      

10「隣人の家を欲してはならない」

* カトリック(2-6,7,8-11,12,13,14,15,16,17a,17b)とユダヤ教(2,3-6,7,8-11,12,13,14,15,16,17)では十戒の数え方が違っています。 

何の為に、神である主はこの戒めをご自身の民、イスラエルにお与えになったのでしょうか。

その目的は、「神への畏れをあなたがたの目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようにするためである。」(:20)とあります。この戒めをもって神である主は、戒めに従う者、神である主に従う者であるかどうか「あなたがたを試す」と言われます。

「罪(あえて十戒を破ることと言いますが)」は自分自身を、自分の人生を、隣人の人生を壊します。一度壊れると、回復するのは非常に困難であることを私たちは知っています。真に人が「神を畏れる者」であるなら、「罪」の誘惑に打ち勝つこともできるかも知れませんが、人は「神を畏れる」よりも「自我」や「欲」や「衝動」が前に出ます。悪いとわかっているけれどもやめられない、抑えられないのが罪です。

10の戒めは、私たちの人生がどうであるのか、その歩みはどうなのかを「試して」います。

十戒を理解する上での、イエスの教え

マタイ22:34~40(マルコ12:28~34、ルカ10:25~28)で、一人の人がイエスに質問しています――「律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」。イエスは「十戒」だとは言われませんでしたが、「十戒」で語られているその本質を、旧約聖書の2つの箇所から答えられます。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。(申命記6:5)』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。(レビ記19:18)』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」

この十戒の記事を、前半の4戒と後半の6戒に分け、2回に分けて礼拝でお話ししたいと願っています。今日は前半の「あなたの神を愛せよ」、即ち、あなたと神との間の戒めを読み、来週、後半の「隣人を愛せよ」、即ち、あなたと隣人との戒めを読んでいきたいと思っています。

十戒の第一戒は、「私は主、あなたの神。あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。私をおいて他に神々があってはならない」です。出エジプトの奴隷からの解放は、神と私の関係です。私の救い、私の神は唯一あなただけです、という告白に至る、神と私との関係を示しています。

第二戒は、偶像礼拝をしない(ひれ伏し、仕えてはならない)。特にプロテスタントでは「偶像を造ってはならない、刻んではならない」ことを強調します。偶像社会の日本において、又、世界の神々が祭られている社会においても、「偶像を拝まない」ことは決して容易い戒めではありません。

神である主は、「妬む神である」とあります。「妬む」という言葉は、悪い意味で使われることが多いですが、どうして主は、偶像を拝む者に対して「私は妬む神」と言われるのでしょうか。この「妬む」という表現の中に、目を向けておられる(無関心ではおられない)、強い結びを求め、共にいることを求めておられる、なぜなら、人を、あなたを愛するがゆえにという内容を読み取りましょう。

又、6節には、「私を愛し、その戒めを守る者には」という言葉で、「私を憎む者」と対比して、主を憎む者には、子、三代、四代までもその罪を問い、主を愛する者には、幾千代にわたって慈しみを示すと言われます。

神である主を愛し、その戒めを守る者への、神の恵みの大きさを知ります。

第三戒は「神、主の名をみだりに唱えてはならない」です。主の名を唱えてはならないのではなく、「みだりに」唱えてはならないのです。注のある聖書には、直訳「空しいことのために」とあります。軽率に、やたらに、精査なしに、不誠実に、身勝手な理由で、ということです。なぜなら、神は軽んじられるお方ではありません。心から賛美し主の名を呼びましょう。喜びと感謝をもって、あるいは、時には悩みの時に、主の名を呼びましょう。

第四戒は、「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」

この戒めは、とても具体的で、「してはならない」でなく、「しなければならない」ものです。6日働いて、7日目はどのような仕事もしてはならない。主は安息日を祝福して、これを聖別されたからです。主は安息日を準備され、祝福と聖別を私たちに与えて下さいます。主の安息日に私たちは主の許に招かれています。

「わたしはあなたを愛するゆえに祝福します。」「あなたはわたしのものです。平安を得なさい。」主に招かれてここに身を置く。主日とは、主が設けられた安息日です。主のもとに、真の休み、安息があります。

(ハイデルベルク信仰問答集)

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答  わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのもの(聖別)であることです。 その安心感は大きく私たちを包みます。

1戒~4戒は、「心から神である主を愛する」戒めです。人と人との関係を壊すものが罪であることを私たちは知っていますが、聖書はその原因は、神と人との関係が壊れていることだと言っています。

イエス・キリストの十字架の縦木は神と人との関係を、横木は人と人との関係を表すと良く説明されます。その壊れた関係を正しく結び、回復するのが、イエスの十字架です。主イエスは血を流し、肉を裂き、心を裂いて、神から捨てられて、命をかけて、私たちの罪を赦し、汚れを清め、神と私、私と隣人を結んでくださったのです。神の愛を覚えて私たちも神に愛をもって応答、お従いしましょう。

竹田広志's Ownd

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千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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