5月29日(日)礼拝説教全文
「あなたの隣人を愛せよ」 出エジプト記20:12~21
参照:「あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」マタイ22:34~40
神である主が、シナイ山でモーセと民に語られた「十戒」を礼拝で読んでいます。
10の戒めの数え方は、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントでは異なるとお話ししましたが(プロテスタント【2-3,4-6,7,8-11,12,13,14,15,16,17】、カトリック【2-6,7,8-11,12,13,14,15,16,17a,17b】、ユダヤ教【2,3-6,7,8-11,12,13,14,15,16,17】)、最初の4つの戒めは、神と人との関係、残りの6つの戒めは人と人との関係という区分にして、前半は「あなたの神である主を愛しなさい」。後半は「隣人を自分のように愛しなさい」というイエスの「最も大切な戒め」のおことばにまとめることができると話しました。
繰り返して言いますが、主がこの戒めをお与えになった目的は、「神への畏れをあなたがたの目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようにするためである。」(:20)とあります。そしてこの10の戒めは、「あなたがたを試す」チェック項目でもあるとお話ししました。もう一度、10の戒めを見てみましょう。
1「あなたは、私をおいて他に神々があってはならない」
2「あなたは自分のために彫像を作ってはならない」
3「あなたは、神、主の名をみだりに唱えてはならない」
4「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」
5「あなたの父と母を敬いなさい」
6「殺してはならない」
7「姦淫してはならない」
8「盗んではならない」
9「隣人について偽りの証言をしてはならない」
10「隣人の家を欲してはならない」
後半の5~10までの戒めは、人と人との関りにおける戒めです。
人との関わりの中で、最初に挙げられていますのが「あなたの父と母を敬いなさい」です。産みの親、育ての親に限らず、父と母とを敬えという内容です。
親子関係は、最も身近な人間関係のひとつです。身近な人間関係であればあるほど、溝ができますとなかなか修復は難しいものです。
ある人にとってはこれが大きな躓きになることもあります。両親を憎んでいる子供が少なからずいるからです。ある方が、聖書のどの戒めにも従おうと願いますが、父だけは敬う事が出来ません。と話されたことがあります。又、両親と私は不仲で、今は何の連絡も取り合っていません、という言葉を聞きます。
尊敬できる、愛情豊かに私を育ててくれた両親ならば尊敬もできるが、そうでない場合は返って軽蔑しかできませんと言葉が返ってきます。しかし、「あなたの父と母とを敬いなさい」は、その両親がどのような存在であれ、神の戒めであり、十戒の意図を読むと、それは安易に従えるものというのでなく、それは試すものであります。
「あなたは両親を敬いますか」もし、両親を恨んでいたり、軽蔑している自分がいるならば、これは悔い改める大きなチャンスです。このように祈って下さい。「主よ、私は自分の父を母を赦すことも、受け入れることもできせん。それが本心です。しかし、私の思いではなく、あなたのお心、お言葉に従います。今日、私は父を母を赦し、受け入れ、そして敬います」
神である主に従いたい、その一心で祈るのです。その祈りに主がお応え下さいます。
* 心から父母を憐れみ、その祝福を祈り、しかし距離を置く関係の場合もあります。
第6の戒めは「殺してはならない」です。これも大きな私たちの、又私たちの世界の課題です。戦争で多くの人が殺し殺されています。又、殺人事件は絶えません。人は人を殺してはならないのです。何十年か前に、未成年による児童殺害事件があって、「どうして人は人を殺してはならないのか」というのが連日のコメンテーター達のテーマになっていたことがあります。若い人が討論で、どうして動物は殺してもいいのに、人は殺してはいけないのかと屁理屈を言っているのも聞きました。私も当時若かったので、聖書に神が「殺してはならない」と言われているからだと大上段に構えて言っていました。
しかし、私たちは誰でも人殺しになりうるのを知っているでしょうか。日本で年間約3000人、世界で約135万人の方が交通事故で亡くなっています。それは時に不慮の事故であるかも知れない。しかし、故意でなくとも人殺しとなり得るのです。
旧約では「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足」と「憐みに目を向けなければならない」とあります。殺されたら、殺した本人だけが殺され、他の身内の者を殺してはならないという憐みの律法です。又、過失で人を殺してしまった場合「逃れの町」という憐みの場が設けられています。(申命記19章、出エジプト記21:13~、民数記35:9~、申命記4:41~)
どのような理由があっても、まず私たちは「人を殺してはならない」という、唯一の神である主のことばに耳を傾けなければなりません。いや、今このような時代、世界であるからこそ、耳を傾けなければなりません。
ある本を読んで、感心したことがあります。その本では「人を殺してはならないのは、自分が殺されないためだ」と書いていました。学校のいじめについて書かれていた中での一文ですが、誰かがクラスの誰かをいじめたとする。その時から、いじめた本人が、自分もいじめられても仕方の無い世界、いじめの被害者になりうる領域に自ら足を踏み入れたことになるのだと書いていました。他人をいじめてはならないのは、自分もいじめられないためだ。いいですか、銃をもって人を殺した人は、いつ自分が銃で撃たれて殺されるか一生ビクビクしながら暮らさなければなりません。殺したら殺されるかもしれないという現実が自分の世界に入ってきます。
イエスは山の上の説教で、「殺してはならない」の戒めについて話しておられます。(マタイ5:21~26)。人は人を殺して人殺しになるのではない。「怒りの衝動」が前に出て、又「恨みが積み重なって」、人を殺すのだ。自分自身を省みる機会を持ち、あなたの内側を清めなさいと言われています。
律法は私たちに罪の自覚を与え、悔い改めに導く養育係です。神に造られた人とは何でしょう。神を畏れ、神の前に清く生きる者です。
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