6月5日(日)ペンテコステ記念礼拝

「聖霊を受けなさい」 使徒言行録2:38~42 ペンテコステ記念礼拝

参照:ガラテヤ5:22~23 「御霊の実は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制」

ペンテコステとは

言葉の意味:ペンテコステ(=ギリシア語)50日目、50番目

ユダヤ教では、7週の祭り(シャブオット)大麦の初穂をささげる祭り

キリスト教では、聖霊降臨日 教会の創立記念日 主の復活の日曜日から7週後の日曜日

時系列

イエスの復活後の40日間の顕現(使徒1:3)→10日間の弟子たちの祈り→聖霊降臨日

復活された主イエスの約束のことばを信じて、「エルサレムから離れず、父の約束されたものを待ちなさい」(:4)。「間もなくあなたがたは聖霊によってバプテスマを受ける」(:5)。「聖霊が降ると、力を受け、キリストの証人となる」(:8)。その約束を信じて祈った弟子たち(:12~14)。

          

初代エルサレム教会の創立 

120名ほどのメンバーでスタートしました。

心を合わせ、悔い改め、主イエスの約束を信じて祈り待ち望む人々の上に、聖霊が降り、一同は聖霊に満たされました。それは、世界の歴史で最初の教会が誕生した瞬間です。教会とは何でしょうか。その本質は聖霊に満たされた人々の集まりです。

使徒言行録は、ペトロやフィリポ、バルナバやパウロ、使徒たちの働き(宣教と教会を建て上げる働き)の記録ですが、今日の私たちの世界の教会にもつながる、キリスト教会の働きであり、聖霊の働きの記録と言えます。今も教会の働き、聖霊の働きは続いています。

ペンテコステ記念礼拝を行うことは、聖書に記されているこの出来事を知識として知る以上に、今、私たちが聖霊に満たされる経験をいただくことです。教会とは、主の約束を待ち望む者に聖霊が降り、聖霊に満たされる場所です。

本日の聖書箇所は、使徒言行録2章14節からの見出しに「ペトロの説教」とあります。心を合わせて、主イエスの約束を待ち望む120名ほどの人々の上に聖霊が降り、集まっていた人々は聖霊に満たされました(使徒2:1~4、1:14~15)。この物音に大勢の人々が集まって来ます(2:5、6)。そこで、ペテロは7週の祭りにエルサレムに来ていた様々な出身地の大勢の人々(数千人規模)に向かって、大胆に説教を語ります。

そして、説教を聞いた人々を招きます。「この素晴らしい、主イエスがくださる聖霊の満たしは、あなたがたにも、あなたがたの子供たちにも、また、遠くにいる全ての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです」(:39)。誰でも、そう、誰もが主の招きに応えるならば与えられるのです。わくわくしませんか。この素晴らしい主の恵みを受ける対象は、例外なく全ての人なのです。

ペトロはどんな言葉で、この祝福を受けるように人々を招いているでしょうか。

38節に「悔い改めなさい。」そして、神である主に「罪を赦していただきなさい。」そして、ひとりひとりが自らの信仰をもって「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」と招いています。ペトロの勧めは、① 自分の罪の悔い改めと、② イエス・キリストへの信仰です。

主イエス・キリストが十字架で命を捨てられたのは、あなたの罪の赦しの為です。私の罪を身代わりに背負って、罪の神の裁きを受け、苦しみを受け、死んで下さいました。

自らの罪を認め、私の罪の為に主イエスは十字架の上で死んで下さったこと、その十字架の贖いによって私の罪は赦されたと、イエスを見上げて信じるのです。

「あなたがたが十字架につけたイエス」(2:36)、そのイエスが復活されたというメッセージを人々は聞きます。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれた」(2:37)。心を打たれたとは、単に感動したのではなく、自らの罪を深く認めたという痛みです。

あなたの罪が、罪のない神のひとり子、イエスを十字架につけたのです。

* 「十字架につけよ」と叫ぶ群衆の中に私もいた。

自らの罪を認める人は幸いです。それを知らされる人は幸いです。自分はどんなに罪深い者でしょうか。

聖書・神の戒めに深く触れれば触れるほどに、自分の罪深さを知ります。

しかし、どんな罪も私たちの救い主、主イエス・キリストの十字架によって赦されるのです。

「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間になった」とあります(:41)。聖霊が力強く働いて下さる場所に、認罪が起こります。

先々週以来礼拝で「十戒」を読んで、父と母とを敬え、殺してはならないと読みました。親を憎み、軽蔑することは罪です。又、人を殺すことは罪です。しかし、その前にある「あなたは私のほかに、なにものをも神としてはならない」「あなたは自分のために、彫像を造ってはならない」「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という神に関する戒めは非常に重要で、反することは罪です。

「神であるお方を神として崇めもせず、感謝することもせず、空しい思いにふけり、心が暗くなったからです。自分では知恵ある者と称しながら愚かになり、不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り替えたのです」(ローマ1:21~23)

神を神とせず、崇めもせず、感謝する事もない、神に対する不敬虔の罪が全ての人にはあります。

ある人が、「罪とは、殺したり、盗んだり、浮気をしたり、嘘をついたりすることだと思っていました。私はそんな罪がないと思っていました。しかし、教会に通い、聖書の言葉によって知ったのは、最も大きな罪は、まことの神を神としない自分であることがわかりました」と言っていました。

悔い改めとは、向きを変えることです。神に背を向けて歩んでいた私が、神に向かって生きる者、まさに、神を崇め、感謝する者へと変えられることなのです。

「悔い改め、イエスを信じてバプテスマを受け、聖霊を受けなさい。」(使徒2:38)

聖霊はあなたに力を与えてくださいます。よみがえられたイエス・キリストと共に生きる者、主の復活の証人としてくださいます。

ペトロは「この邪悪な時代から救われなさい」と励まします(:40)。

邪悪の時代とは、「肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです。」(ガラテヤ5:19~21)

これに対して、「(御)霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22~23)

イエスは彼らに息を吹きかけて言われた「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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