6月12日(日)礼拝説教全文

「十戒 人を愛する戒め」 出エジプト記20:14~26

神である主の力強い臨在の御前で、民は神の戒めを受けます。そして「聖別」の為の全焼のいけにえと、「交わり」の為の会食のいけにえを屠り、全焼のいけにえを焼き尽くす為の祭壇を築くように命じられます。(:22~26)

本日は、神である主が、シナイ山でモーセと民に語られた「十戒」の後半です。

最初の4つの戒めは、神と人との関係、残りの6つの戒めは人と人との関係に区分され、前半は「あなたの神である主を愛しなさい」、後半は「隣人を自分のように愛しなさい」というイエスの「最も大切な戒め」としてまとめることができるとお話しいたしました。(マタイ22:34~40)

主がこれらの戒めをお与えになった目的は、「神への畏れをあなたがたの目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようにするためである。」(:20)とあります。そしてこの10の戒めは、「あなたがたを試す」もの、すなわち、自分自身を吟味する項目でもある、とお話ししました。もう一度、10の戒めを見てみましょう。    

1「あなたは、私をおいて他に神々があってはならない」2「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」3「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」4「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」

5「あなたの父と母を敬いなさい」6「殺してはならない」 7「姦淫してはならない」

8「盗んではならない」9「隣人について偽りの証言をしてはならない」 

10「隣人の家を欲してはならない」

7番目は「姦淫してはならない」という戒めです。

これは今日においても大きな社会問題であります。何千年たっても、人々の暮らしが変わりましても、人は変わりません。十戒は古いものではなく、今も昔の人と変わらない私たちの課題です。

「姦淫」は人間の性に関わる事です。「姦淫」を辞書で引きますと、人としての道義に反する肉体関係とあります。直接的には配偶者のいる男性や女性が、別の女性や男性と肉体関係を持つことを意味します。良く週刊誌等で見るわかりやすい言葉で言いますと「浮気」「不倫」です。しかし、不道徳な、道義に反する性的関係は、不倫だけに関わらず、「不品行」を行う者も殺されなければならない、石で打たなければならないと旧約聖書は厳しく戒めています。(レビ記20:10~、申命記22:22~)

それは人の憎しみ、怒りから出る殺人というものとは又別の、「人の欲」からでるものです。

人には三大欲求があると言われます。「食欲」「性欲」「睡眠欲」です。

どれも、それ自体は悪でも罪でもありません。健全な人の欲求です。しかし、その程度が度を越え、道義を逸脱しますと、7つの大罪の中の「暴食」「色欲」「怠惰」と変わります。そして自分の欲をコントロール(制御)することが困難です。人間の欲望には際限が無く暴走します。「欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:15)。実際、私たちは罪を犯すことのないようにするには、どのように自分の「欲」を制御することができるのでしょうか。 * バプテスマのヨハネのようにクムラン(教団)の禁欲生活を柱とした生活

日本において浮気は法律違反です。罰があります。未成年者との肉体関係も同じです。しかし、婚前交渉はどうでしょうか。風俗店に行くことはどうでしょうか。何かを性的な欲望を掻き立てるものを見て自慰行為をすることはどうでしょうか。男性に限った問題でしょうか。そうではないと思います。私たちはこのような「性の課題」は、タブーとし、聞きたくないので蓋をしてしまいたいと思います。どうしてでしょうか。

性の課題は、誰にもある身近なものです。そして、他の罪にまさって、常に恥が伴うものです。

隠しておきたいのです。アダムとエバが罪を犯した時、最初の二人の様子を聖書はこのように書いています。「すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った」(創世記3:7)。それまでは、「人とその妻は二人とも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」(創世記2:25)とあります。性は、隠したい恥が伴います。

聖書の中で、「姦淫」について読むことが出来る赤裸々な内容は、ダビデ王とバト・シェバの記事(サムエル記下11:1~)でしょう。又、姦淫の現場を押さえられて、イエスの前に引き出された女の記事(ヨハネ8:1~)もあります。

イエスは山の上の説教で、前回の「殺してはならない」と共に「姦淫してはならない」について話しておられます(マタイ5:27~)。「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」と言われます。「(情欲を抱く)目はえぐり出してしまいなさい。情欲を起こす手は切って捨てなさい」と言われます。イエスの律法は、十戒の厳しさよりも遥かに高い見地の教えです。私は情欲を抱いて異性を見たことはありません、と誰が言えるでしょうか。イエスは、あなたがたの内側を清めなさい、と私たちに言われます。

このイエスの戒めは、その戒めを正面から受け止める者全ての人に罪を認めさせます。イエスの言葉によって私たちの心は探られます。年を取ったから、結婚したから解放されるのでもないのです。

* 大阪府知事のY氏の事件 一瞬にして地位も名誉も失った愚かさ。

8番目は「盗んではならない」、10番目は「隣人の家を欲してはならない」です。

「物欲」「金銭欲」は誰にでもあります。イエスは特に「金銭を愛する」ことについて人々に何度も警告しておられます。「神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われます。又「金持ちが天国に入ることは、らくだが針の穴を通るよりも難しい」(マタイ19:23~)とも言われています。「欲しい」と思う事は罪でしょうか。10番目の戒めは「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、(その他)隣人の所有物を一切欲してはならない」とあります。「欲する」こと自体は罪ではありません。しかし、必要以上に「欲する」と「強欲」になります。又、自分のものでないものを「欲する」気持ちが熟すると「盗む」ことになります。口語訳聖書では「むさぼってはならない」(新改訳「欲してはならない」)とあります。必要以上に欲するというニュアンスがあります。着ることも、食べることも、飲むことも、住むことも、欲しない者はいません。美味しい物を食べ、素敵な衣服を着、立派な家に住みたいでしょう。しかし、「欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:15)。

* 中世の貴族の「暴食」 大金を持っているのに安い物を万引きする愚かさ

9番目は「偽証をしてはならない」です。

この箇所は、隣人について偽りの証言をしてはならない、という裁判の席や、冤罪を生むような偽証を含んでいる内容です。単に「嘘をついてはならない」という内容も含みますが、法的に、自己を偽って弁護したり、隣人を陥れようとして証言したりするものです。

この戒めを最後にしたのには理由があります。「偽ってはならない」ということは「欲」に関するものではありません。私たちの内にある「悪意」「虚栄」から来るものです。

ああ、人が真実な告白を神の前にすることができたなら、どんなに幸いでしょう。

最初に神の戒めに背いたアダムとエバが、自分の罪を認め、神の御前に悔い改めることができたなら、憐れみ深い神である主は、どのようにされたでしょう。どのように世界の歴史は変わったでしょうか。自分が木の実をとって食べたのではない、あの女が私に渡したのだ。私が悪いのではない、蛇がわたしを騙したのだ、私が悪いのではない…。罪の「責任転嫁」「自己正当化」があります。

かつて、フランクリン・グラハム大会で、カウンセリングの働きをさせていただきました。集会の最後に、「今日、神の前に自分の罪を告白し、あなたの罪を赦していただきなさい。神の救いを受け取ってください。どうぞ、前に出て来て下さい。あなたの為に祈ります」という招きがあり、多くの人が自らの罪を示され、前に出て来ました。私はその日、何人かの人と祈りましたが、ひとりの青年の祈りを忘れることができません。彼は自分の罪を告白し、涙を流しながら祈っていました。「私は嘘つきです。どうか私の罪を赦してください」というものでした。どういうことなのか、「嘘をついた」と懺悔しているのか、と思いました。彼はとても優秀な青年でしたが、自分ができないこともできる風にいつも見栄を張って、人に良く見られたい為にずっと嘘を

ついていたと言うのです。そんな「嘘つき」の自分に心底悩んでいたのでした。神である主の前に人は偽ることはできません。十戒は私たちに罪を認めさせ、悔い改めと救いへと私たちを導きます。義人はひとりもいません。今日、神の前に、自分の罪を告白しましょう。神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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