6月19日(日)礼拝説教全文
「憐みの律法」 出エジプト記21:1~27
イテロの進言
以前に読んだ出エジプト記18章で、モーセと彼のしゅうとのエトロが対話した場面がありました。
「モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセのそばに立って待っていた。」(:13)モーセはしゅうとエトロに問われて答えます「民は、神に尋ねるために私のところに来るのです。彼らに問題が起こると私のところにやって来ます」。それを聞いてエトロはモーセに進言します「あなたは神の前に出て、多くの問題を神に述べなさい。そして、あなたは掟と律法を彼らに示し、彼らの歩むべき道とすべき行いを知らせなさい。」(出エジプト記18:13~20 モーセとエトロとの対話から)
本日の聖書箇所出エジプト記21章からは、20章の律法全体の大枠の戒めである十戒から、律法の詳細な事項へと進みます。21章1節~23章9節まで細かい規定・掟・法が続きます。
「・・・の場合は」といろいろな事例(実例)を挙げて、具体的な内容が語られます。各課題に対して、このような罰則や処分を下さなければならない、という形で述べられています。レビ記、民数記、申命記においても、様々な具体的な細かい規定が数多く述べられています。
神である主は、私たちの課題・問題の細かい部分に至るまで、良く聞いて下さり、配慮して下さるワンダフル・カウンセラーであり、正しいジャッジをして下さる審判者です。
(律法の詳細に関する1例)
〇 レビ記1~16章 祭司に関する規定 17章~27章 民に対する規定 25章 ヨベルの年の規定
〇 民数記1~4章 レビ族に関する規定 5~6章 汚れに関する規定 他、祭司と献げ物に関する規定 35章9~34 逃れの町に関する規定 36章 女が相続人である場合の規定
〇 申命記5~十戒の復唱 12~16章 民に対する規定 4章、19章 逃れの町に関する規定
神である主がこのように語られるという内容で進みますが、先ほどお話ししましたように、主が事細かに掟を民に与えられたと言うよりも、民の中にある様々な事例(ケース)に、モーセが仲介者として、神である主に聞き、神である主が民にお答えになられたという事ができます。それをモーセが法として書き記し、彼一人が毎回、様々な課題に応じるのではなく、律法をもってモーセに代わる選ばれた代表者が裁き、イスラエルの民が主のおこころ(律法)に従ったことがわかります。
1、ヘブライ人の奴隷に関する法(:2~11)解放と贖いの戒め
律法の詳細について第一番目に書かれていますのは、「奴隷」に関する規定です。これが最初に挙げられているのは注目すべきことでもあります。
男性の奴隷の場合(:2~6)「あなたがたがヘブライ人の奴隷を買った場合」
女性の奴隷の場合(:7~11)「ある人が自分の娘を女奴隷として売る場合」
民の中にあって最も弱い立場にあるのが「奴隷」であると言うことができます。イスラエルの民も、かつてエジプトにおいて厳しい奴隷生活を送って来た者たちです。「奴隷」という立場に置かれることが、どんなに辛い境遇であるかを彼らは経験していました。聖書も、キリスト教も「奴隷制度」を肯定しているのではありません。どちらかというと解放・贖いを告げています。今は世界中で「人権」が尊ばれる中、奴隷制度を明確に承認する国は少ないかと思いますが、強制労働、人身売買、強制結婚が行われる国が今もあります。
奴隷の多くの場合は労働の為の道具として売買され、使用されます。旧約聖書の時代にも、実際に生きる術を持たない貧しい人々は、どこかに属するために身を売るような生き方をしなければならなくなります。特に保証のない国の民は、個人で裁量しなければならなくなります。そして奴隷は主人の所有物となり、その子供たちも主人の所有となっていきます。
奴隷の7年目の解放の年についての規定
申命記15章 7年目の負債の免除と、奴隷の解放
レビ記25章 7年×7=49年を経た50年目のヨベルの年(7月10日贖いの日)
「安息の年」「土地の返却」「すべての住民と奴隷に対する解放と贖いの年」
「もしこれらの方法で買い戻されないなら(贖う事ができないなら)、ヨベルの年には、その人もその子らも出て行くことができる。イスラエルの人々は私の奴隷(所有)である。私がエジプトの地から導き出した私の奴隷である。私は主、あなたがたの神である。」(レビ記25:54~55)
(*世界の歴史の中で、1833年イギリス「奴隷制度廃止法」、1863年アメリカ「奴隷解放宣言」)
これは神の「憐みの律法」であることがわかります。奴隷に対する配慮と解放の為の戒めです。
人は決して人を所有できない。なぜならば、全ては神の所有であるから。神の所有(神の愛の対象)である隣人に対して、憐みの心を閉じてはならず、必ず解放しなければならない。全ての人は神の前に自由です。しかし、奴隷自らの意思によって主人に仕えるのであれば、主人に仕えることができるとあります。
* フィレモンへの手紙15~20節 第一コリント7:20~24 エペソ6:5~9
パウロの手紙の中では、パウロは奴隷制度を認めている様にも思える内容ですが、繰り返し言いますが、聖書は、奴隷制度を肯定するものではなく、解放と贖いの戒めを告げています。
2、過失による殺人、傷害に関する法(:12~27) 逃れの場所(町)の設置
過失(故意でない)によって人を殺めた者に対して、「逃れの場所」を定める。
故意の殺人、両親の殺害、誘拐をする者、両親を呪う者は必ず死ななければならない。
傷害に関しては罰金を払い、補償をしなければならない。
事例:「男たちが互いに争って、妊娠中の女にぶつかり、流産させた場合その女の命に別状がなければ、その者は夫が要求し、裁判で認められた罰金を支払えばよい(:22)」
逃れの町の規定は、民数記35章、申命記19章、ヨシュア記20章に詳しく記されています。
「逃れの町」とは、過失で人を殺した者が逃れる場所であり、裁判を受けて真相が確定されるまで命が守られる場でもあります。故意であれ過失であれ、殺された者の身内には復讐する権利があります。加害者は命の(血の)報復が求められる対象となります。過失であっても報復の対象となりますが、その報復を阻止する為の場所が設けられます。
殺人、傷害に関して、どれも過度の報復をしてはならないという戒め・「憐みの律法」であることがわかります。
「命には命を、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、やけどにはやけどを、生傷には生傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」(:23~25)
最後に、男であろうと女であろうと奴隷の身体を打って、目を潰したり、歯を折ったりした場合、その代償として自由の身にしなければならない。これは奴隷に対して不当な仕打ちや、過度な暴力を振るってはならないことを戒めています。
生まれながらに奴隷の立場にある者は、逃れることのできない現実でした。偶然の過失であっても、他者の命を奪う者がその罪を厳しく咎められることは、逃れることのできない現実です。
奴隷は、贖わなければなりません。罪人は、償わなければなりません。自分の力によっても、誰かによっても贖うことも償う事もできない者が、自由を得、命を得る為にどうすればよいのでしょうか。主は「逃れの町」を用意しておられます。教会は、イエス・キリストの御許(みもと)は、私たちの「逃れの町」です。私たちの大祭司であるイエスが、ご自身の命、血をもって執り成し、弁護して下さるところです。
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