7月3日(日)礼拝説教全文
「主の前で真実(自分の罪)を告白せよ」 出エジプト記22:1~14
神はモーセに言われました。「あなたが彼らの前に置くべき法は次のとおりである」(21:1)
先週に続き、民の問題や事件に神がお答えになった主の判決、主の定められた法の詳細な内容が続きます。
人が協議して定めた法ではなく、「十戒」を軸に神がイスラエルに語られた法(律法)です。審判者は真実な公正な主ご自身です。聖書の戒めは人によるものでなく、神である主によるものです。
これまで、「奴隷に関する掟」「過失による殺人の掟」「傷害に関する掟」「家畜に関しての掟」を読みました。
・1節に「夜中に盗人が現場で見つかって、打たれて死んだ場合」とあります。打った者には血の責任がないとあります。しかし、それが日中であったなら打った者に血の責任がある、とあります。どうして日中だと責任があるのか。これも過失と過剰防衛に当たるかと思います。正当防衛と過剰防衛は違います。どこまでも主の律法は憐みが優先していて、憐みに満ちています。たとえ罪を犯した者であっても、その償いは必要ですが、過度の仕打ちをしてはならないのです。
・盗んだ家畜に対する賠償(:3)
盗んだ家畜は、盗んだ家畜をそのまま返すことができれば2倍の賠償です。(そのまま返すことができなければ、牛は5倍、羊は4倍の賠償と定められています。)その賠償ができない場合は、自分自身を奴隷として売らなければなりません。
・畑の物に対する賠償(:4)
家畜が他人の畑の物を食べてしまった場合、自分の畑やぶどう畑の最も良いもので賠償しなければなりません。自分の畑から火が出て、隣人の畑と物に燃え移った場合、火を出した者は必ず賠償しなければなりません。
さて、6節からの14節までの内容ですが、ここからは隣人とのトラブルにおいても判断の難しい内容となります。「偽証をしてはならない」の十戒に抵触する事例といえます。
・隣人に金銭や物品を預け、それを預けている間に盗まれた場合(:6~7)
犯人が見つかったら、盗んだ人は2倍にして賠償しますが、盗人が見つからない場合は預かった人に嫌疑が掛かります。この金銭や物品を預かった人は、真実を言っているのかどうかが問われます。本当に盗まれたのか、それとも本人が盗んだのか、どちらか。さて、みなさんはこの事件をどう裁きますか。証拠がなければ「疑わしきは罰せず」「推定無罪」でしょうか。
しかし、圧倒的な聖なる主の臨在の前に歩むイスラエルの法は違います。
「神のもとに行き、(真実を)確かめなければならない(誓わなければならない)」(:7)のです。
神の前に、真実を述べなければならないのです。もし盗んだのであれば、神の前に真実(自分の罪)を告白しなければなりません。
日本国憲法第31条には、「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」とあります。人の犯した罪、犯罪は、法によって裁かれます。その中で証人は、真実を述べることが宣誓されます。「わたしは良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」。法廷で宣誓した証人が偽証をした場合「偽証罪」という罪に問われます。日本では、裁判所の権威の前に「自分の良心に従って」というものですが、聖書の律法は「神の前に」というものです。
どうでしょうか。「偽証をしてはならない」という十戒のことばは、神である主の権威の前に、です。
神の前で偽証ができる者は一人もいません。神への畏れをもって、人は真実を語ります。「恐れてはならない。神が来られたのは、あなたがたを試みるためである。神への畏れをあなたがたが目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようになるためである」(20:20)。神への畏れ(畏怖)とは、神を崇め、尊び、愛することです。これこそが、私たちの幸いです。
・紛失物の横領事件(:8)
二人の人が自分の所有の紛失物について、この家畜は、外套は「これは自分のものだ」と互いに主張する場合。どちらが真実を言っているのかわかりません。「両者の主張を神のもとに持って行きなさい」(:8)とあります。この場合も、神の前に「偽証」をすることのできる者はいません。有罪の者は隣人に2倍の賠償をします。民に神への畏れがあるならば、全ての者は聖なる神のご臨在の前に真実を告白します。
・家畜を預けた場合(:9~12)
ある人が隣人に家畜の番を頼んで、それが死んだり、傷ついたり、奪われたり(野獣に裂き殺されて)した場合に誰も目撃者がいない場合-これは過失に当たります。番をしていた人が隣人の所有物に手をかけていないと「主への誓いがなされるなら」、(:10)番を頼んだ人はそれを受け入れ、賠償はしなくても良い。しかし、盗まれたのであれば、これは管理不足(責任怠慢)なので、その人は賠償しなければなりません。
・家畜を借りた場合(:13~14)
ある人が家畜を借りて、(農耕などに牛を借りることもあったのでしょう)持ち主が一緒にいない時に、それが死んだり、傷ついたりした場合は必ず賠償しなければならない。持ち主が一緒にいた場合は賠償しなくてもよい。但し、借りた人は、たとえ家畜が死んだとしても、借りたレンタル料金は支払わなければなりません。
私たちは「神様に誓って」という言葉を、自分のことばに偽りがないことを強調する為に言う事があります。聖書に「誓ってはならない」(マタイ5:33~)というイエスの言葉がありますが、ここでの「誓う」は、真実を述べることを誓うというのではなく、「神様に誓って〇〇を必ずします」という意味の誓いです。
神の御前で、嘘偽りを言わず本当のことを証言します、と誓う必要があります。もし偽りの証言をするならば、全てを知っておられる神の裁きがその人にくだります。
誓ったからには、本当のことしか言えません。人は偽証をしてはならないのです。罪を隠してはならないのです。罪は必ず償わなければなりません。
私たちは自分の罪は隠しておきたいのです。しかし、神の前に隠すことができる罪はありません。
* 本田弘慈牧師の証詞 よく話しておられた証詞。自分の人生が神の前に映画の様にスクリーンに映し出されて…
「十戒」について語った時にも話しましたが、神である主の前に「私に罪はありません」と言うなら、それは偽証になります。「私に罪はありません」と言える者は、世界にも、歴史にもイエス以外にひとりもいません。
神の前に罪を告白することは、罪ある私にとってどんなに大事なことでしょうか。そしてその罪が赦されるということは、どんなに大きな恵みでしょうか。
日本の裁判でも、世界の法廷においても、「神の前に自分の罪を告白しなさい。そして神に赦していただきなさい」とは言われません。
神である主の前(祭司の前)で、自分の罪を告白し、裁きを受け、その賠償・償いをする。この戒めをイスラエルの民は代々受け継ぎます。神である主がイスラエルに十戒をはじめ、数々の戒めをお与えになった目的を繰り返し読みます。「恐れてはならない。神が来られたのは、あなたがたを試みるためである。神への畏れをあなたがたが目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようになるためである」(20:20)。
ルカ5:20~21
「イエスは彼らの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々は論じ始めた。『神を冒涜するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ。』」
私の罪を赦すことのできるのは、ただ神だけです。イエスは、私たちの罪の為に十字架で身代わりとなって死に、私たちに宣言されます。「人よ、あなたの罪は赦された。」イエスを信じ、罪の赦しを受け取りましょう。
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