7月10日(日)礼拝説教全文
「主が憐み深いように私たちも」 出エジプト記22:15~30 主は憐み深いお方
イスラエルの民は、神の山ホレブの麓で、圧倒的な神である主のご臨在の前に宿営し、モーセを仲介者として、主からの様々な諸問題の裁き方・戒め(律法)を受けます。
私たちはこれまでに、十戒の戒めと、イエスの語られた「全身全霊で神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する最も大切な戒め」と、又、イエスの山の上での説教「あなたがたが聞いている『殺してはならない』『姦淫してはならない』…しかし、私は言っておく」を比較してきました。
いろいろな人から「旧約聖書の神と、新約聖書の神は同じ神なのか。」「旧約の神は残酷で、新約の神は愛のお方のように感じる」という言葉をよく聞きます。「『目には目を、歯には歯を』と旧約聖書の神は言われるが、イエスは『復讐してはならない。右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい』と言われる。同じお方なのか。」
「十戒を語られたのは父なる神で、人となられて人々に語られたのがイエスである・・・」などと、私たちは思ったりもします。父は厳しく、子は優しいのか。間違ってはなりません。イエスが語られる言葉は、父なる神の言葉であり、父の語る言葉は子なるイエスの言葉です。聖霊のお心はイエスのお心であり、聖霊は、イエスの御霊です。三にして一のお方、三位一体の神であられ、み思いはいつも一つのお方です。神ご自身が愛であり、尊び合い、信頼し合い、決して離れる事のない結びのあるお方です。(十字架においては例外ですが)「わたしは、決してあなたをを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5口語訳)と私たちに言われる主のおことばの根拠は、この三位一体の神の愛の交わりの中に私たちも入れられるからです。
本日は出エジプト記22章15節~30節ですが、ここにも様々なイスラエルの人々の中で起こった問題や事件に対する神である主の判決と戒めがあります。旧約聖書にある戒めを与えられた神である主とは誰なのか。父なる神なのか。いや、三位一体の主である。父・御子・御霊の神が私たちに語られる戒めであります。
・未成人のおとめに関する戒め(:15~16)
大人の男性が婚約していない未成年の女性(おとめ)を誘って寝た場合、必ず結納金を支払い、彼女を自分の妻としなければならない。彼女の父親が彼女を与えることを拒んだら、結納金に当たる額を支払わなければならない。これは弱い立場にある未成年のおとめを守る法です。
・呪術を行う女を生かしておいてはならない(:17)
悪魔の業に加担して、それを行う者は必ず殺されなけばなりません。
・獣と寝る者は、誰でも必ず殺されなければならない(:18)
禍々しい(まがまがしい)行為を神は赦されません。人間の堕落の先には、性に関する混沌が生じます。
・他の神々にいけにえを捧げる者は追放されなければならない(:19)
十戒の第一戒、第二戒に反する行為です。しかし、ここでは殺されなければではなく、追放と言われています。出エジプトの時に、イスラエル人以外の多くの異邦人が共にエジプトを出たことを覚えなければなりません。イスラエルの宿営にあっては、他の神々を拝む者と場を共にできません。
さて、20節からが本日のメインメッセージになります。
・寄留者、寡婦、孤児、貧しい者に対する戒めです。(:20~26)
寄留の他国人を虐待してはならない。抑圧してはならない。寡婦も、孤児も、貧しい者も苦しめてはならない。貧しい者に金を貸す時は高利貸しのようになってはならない。貧しい者からは利息を取ってはならない。貧しい隣人の全ての物を質に取ってはならない。衣服を質に取って次の日まで裸にしておいてはならない。
抑圧される者、貧しい者の叫びを主は聞かれます。憐みの心を閉じる者には、主の怒りが燃え上がり、あなたがたを剣で殺される。主も憐みの心を閉ざされます。
私たちが心して耳を傾ける戒めです。
神である主は憐みの心を閉ざす人、貧しい人を省みない人に対して、どうしてこれ程に厳しいのか。
「わたしは憐み深いからである」(:26)と主は言われます。
ジャン・フランソワー・ミレーの「落ち穂拾い」という有名な絵画があります。高く積み上げられた収穫の麦の穂が遠く後方に描かれており、刈り取りが終わった畑で3人の女性が残っている落ち穂を拾っている絵です。この絵を鑑賞しますと、聖書のルツ記を思い起こしますが(ルツ記をお読みください)、レビ記19章9~10節に「土地の実りを刈り入れる場合、あなたがたは畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の実を摘み尽くしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である。」と記されています。
私たちが心して耳を傾ける主のことばです。
私たちは自分が得た物は全て、隅から隅まで自分や自分たちの家族の為に使っています。穂を刈ったり、ぶどうの実を積んでいる仕事をしている人はいないかも知れません。しかし、これは自分のものであるからと言って、全てを自分のものとして刈り尽くしてはならないのです。「貧しい人や、寄留者のために残しなさい。」このことばは今ここにいる私たちに対する主のメッセージです。
私たちの教会は、いくつかの団体、教会に支援をしています。自分たちの教会で集められた献金は、自分たちの教会の為に使えば良いと普通に考えます。本当にそうでしょうか。全てを刈り尽くしてはならないのです。
私たちの主は憐み深い主です。
招詞でマタイ25:37~40を読みました。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」と言われたイエスと、本日の戒めを語っておられる主は同じお方です。イエスは憐み深い主です。イエスが最も厳しい叱責をされたのは、当時の宗教的指導者・憐みの心を閉ざしていた人々に対してでした。神が与えられた戒めは、神を畏れ、罪を犯さないように、正しく公正に生きるためである、と聖書のメッセージからこれまでに聞いていますが、罪を犯さないようにという受動的な内容の奥に、憐みの心を持ちなさいという能動的なメッセージを聞きましょう。イエスの言われた「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」ことが、「罪を犯さない」道に繋がっていくのです。
・神を呪ってはならない。あなたの民の指導者を呪ってはならない(:27)
イスラエルの民は水と食べ物のない荒野に導かれたことで、モーセに対して、又、神に対して、どうしてこんな場所に、と多くの不満・つぶやきがあったでしょう。苦しみは40年も続くわけです。しかし、天からのマナは日々途絶えることなく降り続きました。家畜や穀物の収穫もあったでしょう。この数百万の民が荒野で40年間も生きたのは、主の守りと養いがなければ成し得ない、神の力強い御手による奇跡的出来事です。
「私たちは四方から苦難を受けても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。」(第二コリント4:8~9)「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、逃れる道をも備えてくださいます。」(第一コリント10:13)試練は全ての人に、世の常であり、試練がないわけではありません。しかし、試練の中で、私たちは神を呪ったり、指導者を呪ったりしません。
・最もよきものを主に献げよ
あなたの豊かな収穫と果汁を献げるのをためらってはならない(:28)
今日の私たちには「献金をためらっては、神に献げることをためらってはならない」ということでしょう。
初子(長子)を神に献げなさい(:28~29)
・野で裂き殺された肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えよ(:30)
生きている家畜を屠って食べるが、死んだ家畜の肉を食べることを禁じています。
神は私たちが律法を守り、神の民として「聖なる者」であることを望んでおられます。罪を犯さない「正しい者」であることも聖ですが、忘れてはならないのは、「憐れむ者」が聖であるということです。なぜならば、私たちの聖なる神は、憐れみ深いお方であるからです。
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