8月7日(日)礼拝説教全文
「主の使いがあなたの前を行き」 出エジプト記23:20~33
カナン侵攻に向かっての主のことば
神である主が、約200万人のイスラエルの民をエジプトから脱出させたのは、単にエジプトの地から救い出すのではなく、かつて彼らの先祖アブラハムに約束されたカナンの地に導き、その地を与える為でした。
出エジプトの第一番の目的は、「荒野で主に仕えること」。神の臨在の山ホレブの麓で、神である主の前に祭りを行い、ねんごろに主の戒めを受けることでした。主の前に祭りを行い、主から律法を受けたイスラエルの民は、この後最終目的地である主の定められたカナンへ向かうことになります。
1、神である主の遣わされた「使い」の声に聞き従う(:20~23)
主は、どのような方法でイスラエルの民の旅路を守り、カナンの地へ導かれるのでしょうか。
「私は使いをあなたの前に遣わす」と言われています。
イスラエルの民は、主が遣わされた「使い」に注意し、その声に聞き従い、決して彼に背かないことが求められます。イスラエルが背く時には、その「使い」が彼らの背きの罪を赦しません。
この「使い」について「私の名が彼の中にある」と主は言われます。
「使い」とは誰のことを言っているのでしょうか。
主は、この「使い」の声に聞き従い、「使い」が語ることをすべて行いなさい、と言われます。
これが今後イスラエルの民がカナンへ侵攻する為の最も重要な鍵となります。
主の「使い」に従う時、神である主はイスラエルの民の味方となって下さいます。
「使い」の声に聞き従い、語られる言葉を行うならば、イスラエルがカナンの地に侵攻する時、主の「使い」がイスラエルの前を行き、カナンの住人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人を打ち滅ぼします。
2、偶像を除き去る(:24、:32~33)
これは私達の信仰の歩みにとってとても大事なことです。偶像とは、刻んだ異教の神々の像ですが、神である主以外の何ものかが私の心を占めて、それが第一となっているもの全てを偶像と言います。
(偶像=英語ではアイドル idol 崇拝される人・物)
カナン侵攻の際の注意点
偶像の徹底的な排除と、異教の神々に仕える習慣の排除
彼らの神にひれ伏してはならない。仕えてはならない。(:24)
彼らのしきたりに倣ってはならない。(:24)
異教の神々をすべてその地から除き去りなさい(:25)偶像を打ちこわし、異教の神殿を打ち砕く
彼らと、又彼らの神々と契約を結んではならない(:32)
他の神々に仕える者を、その地に住まわせてはならない。
そうすれば、主が養い、主が病を取り除き、主によってその子孫・一族は力強い民として増え拡がる。「私はあなたの生涯を全うさせる」(:26)
3、徐々にその地を受け継ぐ
これから先のカナン侵攻の際、カナンの地に「恐れ」「恐怖」「混乱」が起こる。
先ず初めにイスラエルの民がカナンの地にある「エリコ」という町に侵攻した時、カナンの地の人々が恐怖に襲われていたことが語られています。 ヨシュア記2:9~11
カナン占領は一年では行われない。少しずつカナンの住人が追い払われる。イスラエルの民は徐々に増え拡がり、その地を受け継ぐ。
その理由は、戦いの影響で地が荒廃し、野の獣がその地を覆わないためです。
領土の範囲
南北=葦の海(紅海)からペリシテ人の海(地中海)まで。東西=荒れ野(ヨルダン)から大河(ユーフラテス)まで。ヨシュア記の時代の実際のイスラエル領土はヨルダン川・死海を中心に、西南と西は地中海まで、東はユーフラテス方面までとなっています。
神である主の遣わされる「使い」とは誰か
「私の名が彼の中にある」
「背きの罪をゆるさない」(逆に言うと罪のゆるしの権威を持つ)
天使・み使いではないことがわかります。実際にカナン侵攻を主導した人物は「ヨシュア、イェシュア、ジョシュア(Joshua)」「ヤハ(主)はシュア(救い)」 「主は救い」という意味です。彼の名の中には「主」があります。
しかし、「使い」をヨシュアと特定することは、この「使い」の働きをみますと難しいと思います。この「使い」の働きはほとんど神的です。「使い」をイエスである、聖霊である、と解釈する神学者や牧師が多いです。
出エジプトとカナン征服は、私達の信仰生活の縮図です。
罪の奴隷生活から救い出された私たちは、主が定められた地であるカナン、すなわち「天国・御国」に向かって進んで行きます。そしてその地を与える為に、先導して下さるのは、私達の大牧者である主イエス・キリストです。私達は主イエスの御声に聞き従い、主の語られるすべてを行います。私達を救いうるお方、御国へ導き入れて下さるお方は、私の罪を赦す主イエスのみです。このお方の名による以外に救いはありません。
他のいかなるものもキリストには代えられません。私達の人生は「私」が一番です。しかし、「私」でさえも主イエスの御前には一番ではあり得ません。偶像を私たちの人生から取り除くとは、まさにそのように心や生活を正すことです。イエスを私達の心と生活の王座にお迎えして、イエスの全ての祝福をいただきましょう。
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