8月14日(日)礼拝説教全文
「血による契約」 出エジプト記24:1~11
見出し 契約が結ばれる
聖書は旧約と新約があります。旧約とは旧い神の契約(約束)であり、新約は神の新しい契約(約束)という意味です。神である主は、ご自身の民と契約を結ばれます。神に従うという言葉は若干抽象的でもありますが、神の契約を守り従うというのは「神に従う」という意味でとても具体的なものとなります。
神に従う者は、神のことば(契約・約束)に従います。
天地創造のはじめに、神が人に最初に言われた約束は、「園の中央にある善悪を知る木の実を食べてはならない。必ず死ぬ」というものでした。人は全てがエデンの園において自由でした。しかし、その木の実に毒性があったとか、それが特別な木であったからというよりもむしろ、神のことばに従わないことが問題であったことがわかります。その木の実を取って食べることは、神である主のことばを退けて、神のように賢くなるという、神に対する反逆の行為でもあったのです。神の契約に従う者は命を得、神の契約に背く者は死を得る。これが神である主の契約を受け、従うという要になっています。
旧約聖書には神である主と、神の民であるイスラエルの間に数々の契約が結ばれていますが、大きなものとして、アブラハム契約(創世記15章)、モーセ契約(出エジプト24章)、ダビデ契約(サムエル記下7:11~17、歴代誌上17:10~15)があります。(他に、エデン契約、アダム契約、ノア契約などがあります。)
本日の聖書の見出しにありますように、神である主の臨在の山ホレブの前で、主はイスラエルと契約を結ばれます。
主はモーセに言われます「アロン、ナダブとアビブ、イスラエルの70人の長老たちと共に主のもとに登り、遠くからひれ伏しなさい。モーセだけが主に近づくことができる。民は山に登ってはならない。」
まず、主の山から戻ったモーセは、主のすべての言葉とすべての律法を民に語り聞かせます。
ホレブ山の麓に宿営していた民は皆集められ、民は皆声を一つにして、「主が語られた言葉をすべて行います」と答えます。200万人もの群衆が皆声を一つにしてとは、私達も礼拝で交読をし、聴衆は声を一つにしてみことばを読みますが、それはどんなに荘厳なものであったでしょう。
モーセは主のことばを民に語って聞かせるだけでなく、すべてを書き記します。一晩で書いたものではなく、主が語られる度に書き記していたことでしょう。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記はモーセ五書と言われますが、いつどのような時に書き記されたのでしょうか。40年の荒野での歳月の中で記されたものであることはわかりますが、十戒をはじめ、多くはこの神の山ホレブでの宿営の中であったかと思います。
膨大な量の神である主のことば・律法・契約を書き記すのは、並大抵ではない知識と能力が必要です。エジプト王宮で40年、王の子として英才教育を受けたモーセであったから出来たとも受け取れますし、モーセ以外にはこれを記し得ないとも考えられます。
さて、モーセは山の麓に祭壇を築き、十二の石柱を立てます。
モーセはイスラエルの中から若者たちを選んで遣わし、彼らは、数頭の雄牛を、焼き尽くすいけにえと、会食のいけにえとして、主に献げます。次世代の若者たちがその任を受けています。
モーセはほふられた雄牛の血の半分を取って小鉢に入れ、血の半分を築いた祭壇の上に打ちかけます。
モーセが書き記した契約の書を取り、民に読み聞かせます。民は「主が語られたことをすべて行い、聞き従います」と答えます。
ここが契約のメインとなりますが、信仰告白をしたイスラエルの民に、モーセは、その血を取って民の上に振りかけます。「これは、主がこのすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である。」
モーセと共に山に登ったイスラエルの指導者たちも、イスラエルの神を仰ぎ見ます。
神である主の足元にはラピズラズリ(真っ青に輝く宝石)の敷石のようなものがあり、澄み渡る天空のようであった。神である主から遠く離れてひれ伏していたイスラエル指導者たちでしたが、彼らは神の赦しを得て、神を仰ぎ見、神である主の前で会食をします。
本日の説教題は、「血による契約」です。皆さん、神である主は、神の民と契約を結ばれるお方です。父なる神がお遣わしになった「使い」、主イエス・キリストを、私(私達)の「あなたこそ生ける神の御子、救い主です」と信仰告白する時、主イエス・キリストの十字架の血潮が注がれ、私達のすべての罪は赦され、神の御前に義とされるのです。
主イエスは十字架にお掛かりになる前、弟子たちと最後の過越しの晩餐の席で、パンとぶどう酒の杯を取って言われました。
「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マタイ26:27~28)
「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マルコ14:24)
「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。」(ルカ22:20)
このイエスの言われた「私の血による新しい契約」が、旧約の上に設けられた、神の新しい契約です。
イエス・キリストが、ここにいる私の罪の赦しの為に、十字架で贖いとなって(身代わりとなって、ご自身の命を代価として支払って)、血を流し、命を捨てて下さった。今、十字架につけられたイエスを見上げて、この福音を信じる者を神は救うと定められたのです。これが、新しい契約(新約)、イエスの血による神と私(私達)との契約なのです。
ヘブライ9:11~22参照
「モーセは、律法に従って全ての戒めを民全体に告げたとき、水と深紅の羊毛とヒソプと共に、若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書そのものと民全体とに振りかけ、こう言いました『これは、神があなたがたに命じられた契約の血である』…血を流すことなしには(罪の)赦しはありえないのです。」
雄牛や雄山羊の血が振りかけられて、汚れた者たちを聖別し、その身が清められるとすれば、まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。(ヘブライ9:13~14)
雄牛や雄山羊の血を今、会衆に向かって振りかけることはしませんが、主イエス・キリストの十字架から流された血潮は、今、あなたの上に注がれています。イエスの十字架を見上げ、イエスの流された血による新しい契約を信じ、神からの罪の赦しを受け取りましょう。死から永遠の命へ、暗闇から光へ、サタンの支配から神の支配へ、滅びから救いへ、神がただちにあなたを救って下さいます。
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