9月4日(日)礼拝説教全文

「決して渇かない水」 ヨハネ4:1~15

今日の礼拝のテーマは「渇き」についてです。「人間が持っている渇き」と主イエスが与えてくださる「生ける水」について、聖書に耳を傾けたいと願っています。

① 人の渇きについて・・・人は、私達は(私は)何に渇くのか。

② サマリアの女の人物像について・・・彼女は何に渇いていたのか。

主はユダヤを去って、再びガリラヤに行かれます(:3)。

「しかし、(イエスは)サマリアを通らねばならなかった」とあります(:4)… 当時ユダヤ人は通常はヨルダン川の向こう岸を迂回して進みますが、ここでは、サマリアを通らなければならない主の強い決意が伺えます。

* 迂回をしていた理由は、ユダヤ人とサマリア人との関係にあります。両者は交流がありませんでした(:9) 軽蔑されていたサマリア人(歴史的な背景の中で)

イエスがあえてサマリアを通られた目的は、ひとつはこの女性に出会う為、そして、サマリア人への宣教の為だったことがわかります。

サマリアの町外れの井戸で、正午(直訳では六時)ごろ、イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらにひとり腰をおろしておられました(:6)。弟子達は食物を買いに町へ出かけていました。

そこに、ひとりのサマリア人の女が水を汲みに来ます(:7)。通常水汲みは午前中か夕方にするものですので、正午に水を汲みに来る者はいません。彼女が人目を避けて水を汲みに来たことがわかります。(*井戸端会議の語源)

すると、見知らぬユダヤ人の男が、彼女が水を汲もうとする井戸の傍らに腰をおろしています。

イエスは、女の驚く行動に出られます。

見知らぬ男性、それもユダヤ人の男性から、サマリア人の女性に声をかけられたからです。

そして、イエスがこの女に願い出て「わたしに水を飲ませてください」と言われたのです(:7)。

本当にこの女性はびっくりしたことだろうと思います。

イエスと女との対話 1.

「水を飲ませてください」 (当時のユダヤ人がサマリア人に向けていた軽蔑するような視線だったでしょうか?)

「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(女は驚きました。)

イエスは答えられました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」

「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。あなたは、私たち父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです。」 

「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私の与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(この言葉にも女は驚きました。)

「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」(:15)

この女の言葉は、主に心からその水を願い求めた言葉であったのかどうか。この言葉のもつ響きで、この出来事の全体は変わってくると思います。私には、この言葉は主イエスに対する皮肉にも聞えます。気の強い、ユダヤ人の男にばかにされておれない、非常に鼻っ柱の強い女。そんな印象を受けます。

イエスが言われる「私が与える生ける水」「決して渇くことのない水」「人の内から泉となって、永遠の命に至る水」とはどのような水なのでしょうか。

焦点は、この女の「渇き」にあります。イエスがサマリアの女のこれまでの歩みをご存知であり、「言い当てた(:29)」内容にあります。

イエスとこの女との対話 2.

そこで、主イエスはこの女の核心に触れられます。

「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

女は主イエスの突然の思いがけない言葉を聞いて「水をください」と言われた時以上に驚いたことでしょう。

女は今までの勢いもなく、「『私には夫はいません』と答えた」と記されています。

「『夫はいない』というのはもっともです。あなたには5人夫があったが、今あなたと一緒にいるのはあなたの夫でないからです。」あなたには夫が5人あったが、今一緒にいるのはあなたの夫ではない、とはどういうことでしょうか。

おそらく、不幸な結婚生活を繰り返しながら次から次へと夫を変えて、今一緒にいるのは、結婚すらしていない男性であるという状況が考えられます。彼女は愛すること、愛されることにことごとく失敗してきたのです。そしてそのことは、昼間正午ごろに人目をはばかって井戸に水を汲みに来なければならない境遇に追いやられているのです。イエスは、彼女の人生の最も暗い部分をご覧になっておられたのでしょう。彼女の渇きに対して、命の水を与える為に敢えてサマリアを通られたのです。

この女性の渇き、それは「愛」です、「愛されたい」のです。

「イエスは、サマリアを通らなければならなかった」(:4)。それは、どうにも満たされない孤独な心の、魂の、霊的な渇きの中にいたひとりのサマリアの女を救うためであったのです。

この女の渇きを生ける水で満たす為に、サマリアを通られなければならなかったのです。

この女はやがて主イエスに心を開いて、主イエスとその言葉を信じて、主イエスの言われた「命の水」を受け取ります。どうしてこの女は心を開いたのでしょうか。イエスが女の素性を言い当てたからでしょうか。イエスのまなざし、そして、その言葉は、他の人と違っていたと思われます。町の人々の冷たい視線ではありませんでした。何一つ責めない愛のまなざしと、すべてをご存知で受け入れて下さっているそのお言葉であったのです。

イエスの愛に触れて、この女は変えられたのです。

イエスの愛に触れること、イエスの愛を知ること。これこそが、イエスから生ける水をいただくことではないでしょうか。イエスの愛によって、私達は決して渇くことのない人生を歩むことができます。

「私はこの人に心から愛されている」と言い切れる人は、どれくらいいるでしょうか。それほど多くないかと思います。又、自分を愛してくれていると思っている人が離れて行き、サマリアの女のように失うこともあるでしょう。しかし、キリストの愛から私達を引き離すものは何ひとつありません。(たとえ、自分に欠点があるとしてもキリストは私たちを命を懸けて愛して下さったのです。そして、今も永遠にそのご愛は消えることはないと仰っています。

(イザヤ43:1、4 )

ローマ8:35、38~39

「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。」

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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