10月2日(日)礼拝説教全文
「美しい門のそばで」 使徒行伝3:1~10
中心 使徒3:6 参考:ヨハネ16:23~26
本日のメッセージでは、イエスの時代の神殿のいくつかある門の中で、東門「美しい門」と呼ばれる門のそばでの出来事を見ていきます。
今、出エジプト記を礼拝の中で読み、主が幕屋の建設の指示をされたところを読んでいます。先週は、幕屋を囲む庭について触れました。幕屋を囲む庭が板をつなぎ合わせた壁で囲まれる形で作られましたが、その庭の東には、一か所だけ人が出入りする門が作られ、仕切りの幕が設けられました。そして、その奥の聖所の入り口、そしてその先の至聖所の入り口にも垂れ幕が仕切りとして設けられたことを読みました。これは、イスラエルの人々が神である主に会見するには、隔ての仕切りを幾つも通って行き、「聖なる主に近づく」という構造があることをお話ししました。
幕屋は、後にダビデが神殿建築を構想・準備し、ソロモンによって建てられる第一神殿、バビロン捕囚解放後に、崩壊した神殿が再建される第二神殿(これは第一神殿に比べるとみすぼらしいものでした)、その後、ヘロデによって改装される神殿となります。イエスの時代の神殿は改装中でした。ヘロデ王は悪名高い王として歴史に刻まれていますが、図らずも神殿再建・改築に取り組みました。しかしながらその目的は、神殿を自らの権力の象徴とする為のものでした。幕屋の内庭にはユダヤ人のみ入ることができましたが、彼は大枠の外庭を新たに作り、異邦人も見物することができるようにしました。異邦人の庭には、回廊(ソロモンの回廊)が設けられ、この場所で、神殿貨幣への両替所や、献げ物の為の動物の売買がなされました。いつもこの場所は、人々でごった返していたことがわかります。イエスが神殿で話された場所も、多くはこの回廊でした。ユダヤ人だけでなく、多くの異邦人もイエスの話を聞いていたことがわかります。本日の「美しい門」はこの異邦人の庭から、ユダヤ人の庭への入り口の東門であります。
神殿には、多くの礼拝者たちが献げ物を持って集まります。イエスの時代も今日もそうですが、ユダヤ人は一日に、朝の9時、正午12時、午後3時とエルサレム神殿に向かって祈りを捧げます。ペトロとヨハネは、午後3時の祈りの時間に神殿に上ったとあります。
すると、この東門である「美しい門」に、「生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た」とあります。誰かが数人がかりで彼を運んで、そこに置くのでしょう。神殿に来る人々は彼を良く見知っていて、彼はこの場所の常連であったことがわかります。彼がそこに置かれていたのは、神殿の境内に上る人たちから施しを乞う為でした。足が不自由な故に、仕事ができず、このような形で生計を立てていたのでしょう。
そこにペテロとヨハネが来て、門を通ろうとします。男は二人に施しを求めます。
門を通る多くの人は目をそらして、「またか、こちらを見ないでくれ」、という気持ちでそこを素通りしていたと思います。
ところが、ペテロとヨハネは彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言います。
二人は、「じっと見て」とあります。聖霊に満たされていた彼らの目には何が見えていたのでしょう。
男はふたりを見上げ、目を注ぎます。ペトロとヨハネ、そしてこの男の目が合います。男の期待は膨れ上がったでしょう。「何かきっともらえるに違いない。」
ペトロは言います「私には金銀はないが、持っているものをあげよう。」
今日の説教のテーマは、ペトロとヨハネの、この「私が持っているもの」です。
「美しい門」で施しを乞うていた男の求めていた物は、その日食べる為、暮らす為の金銭です。施しがゼロだと、その日の食べ物も無いのです。しかし、ペトロとヨハネが「持っているもの」は金銭ではありません。彼に「あげよう」と渡そうとしたものは金銭ではありません。
人々から施される金銭は、確かに彼の死活問題です。明日も、その次の日も、彼はこの死活問題に向き合わなければなりません。私達の日々の生活にも経済の課題、健康の課題、人間関係の課題、先行きを考える未来の課題と、目の前に迫った解決しなければならない問題があります。確かにそうです。私達が主に求めるのは、多くがそのたぐいのものです。
しかし、本日知って頂きたいのは、ペトロとヨハネの「持っているもの」についてです。
あなたはそれを持っていますか。それを受け取りましたか、というあなたへの問いです。
「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
これがペトロとヨハネの持っているものです。「あげよう」と渡そうとしているものです。
ナザレの人(イエスはナザレの人という言葉で認知されていました)イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩くことです。
そして、男の右手をとって立ち上がらせます。引き上げたという感じでしょうか。彼はその勢いに任せて、本来でしたら生まれて一度も立ったことのない男ですので、立ち上がることなどできないのですが、たちまち男の足やくるぶしがしっかりして(使徒言行録の記者は医者であるルカ)、踊りあがって立ち、歩き出し、歩き回ったり、踊ったりして「神を賛美し」、ペトロとヨハネと「一緒に境内に入って行った」。美しい門をくぐって行きました。
そこにいた民衆は彼が神を賛美し、踊りながら門を入って行くのを目撃します。あのいつも「美しい門」で施しを乞うていた者であることに気づき(それほどに彼が「美しい門」にいつもいることが皆に知られていました)、「驚いて」「卒倒しそうになった」。
ペトロとヨハネは彼に何を渡したのでしょうか。
奇跡か、癒しか、不思議な出来事でしょうか。…否
それは「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩く」という福音であります。
主イエスはよみがえり、今も生きておられ、働かれます。「今も」です。
福音は過去に起こった出来事ではなく、福音は今働かれる主イエスの力です。
① 福音とは人の全存在を立たせるもの
この男にとって福音とは、一時的な助け(金・銀)ではなく、根底から男を救うものでありました。ここが重要なポイントです。困難な状況から救われた、癒された、助かった、それももちろん感謝なことでありますが、福音とは、人の全存在、足・腰をしっかりと立たせ、かつて門の前でその日暮しで生きた者とは違って、しっかり自分の足で立って、躍り上がって神を賛美する生涯へと私達を変えるものです。
② 福音は他者に渡すもの
ペトロとヨハネは、彼に福音を渡しています。福音は受けた者が、他者へ渡すものです。
③ 主イエス・キリストの名によって ヨハネ16:1、:23~26
主イエス・キリストの名によって求める(祈る)、これこそが「わたしにあるもの」です。そしてそれは尊く力あるものです。 イエスの名によって祈る祈りには 私達の考えや思いを遙かに越えた力があります。あなたはそれを信じますか。
本当に必要なものは何でしょうか。
人は目先の必要だけを求め、真に何が必要なのかを知りません。私達はパンが必要です。お金が必要です。仕事も必要です。家や着る物も必要です。しかし、本当に必要なのは、イエスを信じて立ち上がり(決断し)歩む(生きる)ことであり、イエス・キリストの御名をほめたたえることであり、主イエスと共に歩む人生に、パンもお金も、仕事も、家族も、真の友も与えられる、全ての必要は添えて与えられることを知ること、経験することではないでしょうか。
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