10月16日(日)礼拝説教全文
「聖くなるために」 出エジプト記29:1~3、:35~37、:42~46
(29章全体から)
参照:第一テサロニケ5:23~24「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように…」
前回は、神である主が、アロンとアロンの子たちを祭司として選び、その務めに就かせ(任職)、彼らに着せるために主ご自身がデザインされた「栄光と美しさを表す」祭服について話しました。
本日も祭司について、特に、「神が人の中に住まわれる」幕屋において祭儀を行う祭司である為の準備についてお話します。
アロンとその子たちが祭司としてその任に就くための、7日間にわたる任職式(:35)について触れます。
彼らは自身が徹底的に清められ「聖別」されて、はじめて主の前に立つことができます。それが彼らの準備です。彼ら自身の為の「贖いの祭儀」について主が指示されます。(:36)
祭儀の前の準備(:1~9)
用意するもの 欠陥のない雄牛一頭、欠陥のない雄羊二匹、イースト菌を使わない輪形の(ドーナツ型の)焼きパン、薄焼きの(せんべいの様な)パン、そして油。
アロンとアロンの子たちは、幕屋の入り口で全身を水で洗い、祭服を着ます。そして、任職の油を用意して、祭服を着たアロンに、任職の油を注ぎます。
レビ記との比較
1章 燔祭(焼き尽くすいけにえ) 2章 素祭(穀物の供え物) 3章 酬恩祭(和解・会食のいけにえ)
4章 罪祭(罪の贖いのいけにえ) 5章 愆(けん)祭(過失などの罪に対する賠償のささげもの)
祭儀1(:10~14) 清めのいけにえ(罪祭) 罪の贖いのいけにえ(:36) →レビ記4章と比較
欠陥のない雄牛一頭を会見の幕屋の入り口に引いてきて、アロンとその子らは「雄牛の頭に両手を置く(:10)」。それを屠ります。祭司の清めの為に「贖い」の儀式を行います。罪の清めの為に、身代わりとなる動物を献げますが、その身代わりの行為として、「両手を置きます」。屠った雄牛の血を取り、指で祭壇の四隅にある角に付けます。残りの血は全て祭壇の基に注ぎます。雄牛の全ての脂肪を取り分け、祭壇の火で焼き尽くし、肉と皮と汚物は宿営の外で焼きます。これは、「私の身代わりとしてこの雄牛の命をささげます。私の罪・汚れを清めてください」という告白です。
祭儀2(:15~18) 焼き尽くすいけにえ(燔祭) →レビ記1章と比較
欠陥のない雄羊一匹を引いて来て、アロンとその子らは「雄羊の頭に両手を置く」。それを屠り、その血を祭壇の周りに打ちかけます。雄羊を各部分に切り分けて内臓と足を洗い、全てを祭壇の上で焼き尽くします。これは、「この羊は私そのものです。私は私の全てを献げます(全焼)。あなたに献身します」という告白です。
祭儀3(:19~34) 任職用の雄羊(酬恩祭) 和解のいけにえ、会食のいけにえ →レビ記3章と比較
欠陥のないもう1匹の雄羊を引いて来て、アロンとその子らは「雄羊の頭に両手を置く」。それを屠り、屠った雄羊の血を、アロンとその子らの右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に血をつけます。残りの血は祭壇の周りに打ちかけます。清められる部分としての右は権威を表すものであって、耳・手・足は、主のことばを聞く耳、主の働きを成す手・足を意味します。
祭服に振りかけられる血と油(:21)
祭壇の上の血と注ぎ油をアロンとその子らに、また彼らの服に振りかけます。
雄羊を各部分に切り分け、全ての脂肪、右腿を祭壇で焼き尽くしますが、動物のいけにえと共に携えてきた丸いパン、輪型のパン、薄焼きせんべいをアロンとその子らは両手に持って主の前に揺れ動かし(揺祭)、いけにえと一緒にそれらを祭壇で焼き尽くします。
雄羊の胸肉、左腿肉は奉納物として主にささげた後に、それらを幕屋の庭で煮て、アロンと祭司の子らは、奉納物として携えてきたパン、薄焼きせんべいを共に、会見の幕屋の入り口(主の前)で食べます。祭司以外は食べてはなりません。残ったものは翌朝まで残さずに、火で焼かなければなりません。
7日間の任職式(:35~37)
7日間、毎日、幕屋の前(内庭)にある祭壇には清めの為に雄牛の贖いの血が注がれ、火で焼き尽くされるために油が注がれ、祭壇は最も聖なるもの(祭具)となります。その祭壇に触れるものは聖なるものとなります。
日々の祭司の務め(:38~42)
燔祭(焼き尽くすいけにえ)小羊・灌祭(水・ぶどう酒)素祭(穀物)(:40~41)→レビ記2章と比較
祭司の務めとして、毎日、朝と夕に、一歳の雄の小羊、油をまぜた上質の小麦粉、ぶどう酒、穀物が、祭壇で焼き尽くされ献げられました。これは主の前に日ごと欠かすことなく献げられる宥めの香り、主への火による献げ物です。
これらの儀式を通して、主は、会見の幕屋、祭壇、アロン、アロンの子たちを「聖別」されます。
「私は彼らの中に住む」(:42~46)(出エジプト25:8)
神である主が、これらのことを命じ、イスラエルの民に行わせられる目的は、「私はその場所であなたがたと出会い、あなたと語る」ためです。そして主と出会い、主の栄光によって聖別されるためです。
「私はイスラエルの人々のうちに住み、彼らの神となる。彼らは、私が主、彼らの神であり、彼らをエジプトから導き出し、彼らのうちに住まう者であることを知るようになる。私は主、彼らの神である」(:45~46)
人が人として神である主に造られた目的は、主と出会い、主と語る、深く交わる対象としてです。人は神の愛の中にとどまる存在です。私たちはそれゆえ、人とも互いに愛しあい、尊びあう関係として生かされています。
神との関係の回復のために、多くの動物の血が流されたことをこの箇所を通して覚えたいと思います。旧約の時代、そうしなければ、誰一人神の前に立つことの出来る者はいませんでした。しかし今、私たちは新約の、福音の時代に生きています。雄羊や小羊の血によってではありません。罪のない、欠陥が全くない神の小羊、主イエス・キリストの血によって、会見の幕屋にはばかることなく行くことができ、主にお会いすることができ、聞き、語ることができるのです。
繰り返し献げられたいけにえの血と油が注がれた祭壇が聖められ、それに触れるものが神の「聖別」を受けるとするならば、主イエス・キリストの十字架の足元にひれ伏し、流された血潮に触れる者は、どんなに完全な「聖別」を受けることでしょうか。キリストの血は、全ての人の全ての罪をきよめます。この福音を信じて、神様に「私の全てをあなたに献げます」と、救いの喜びを賛美して、立ち上がり、ここから歩み出しましょう。
0コメント