11月13日(日)礼拝説教全文

「安息を与える主」 出エジプト記31:12~18  子供祝福式

― 礼拝が安息の日であるために ―

参照:十戒(20:8~11 申命記5:12~15) イエスのことば(マルコ2:27~28) 

出エジプト記の 安息日既定の箇所

16:25~30、20:8~11 23:12 31:12~17 34:21 35:1~3

レビ記、申命記、ネヘミヤ記9:14 13:15~22

「安息日」については、十戒をはじめとして旧約聖書に何度も記されています。

「安息日」は週の6日間労働して、最後の7日目は何の労働もせず、聖なる集会を招集しなければならない。(レビ23:3~4)ユダヤ教では土曜日、イスラム教では金曜日、そして、キリスト教では日曜日を休日とし、「安息日」として礼拝を招集しています。

既に私たちも出エジプトの記事の中で、十戒の第4の戒め(20:8~11)を読み、16章、20章、23章、そして、本日の31章、後に34,35章の中にも「安息日を聖別しなさい」という言葉を繰り返し聞きます。

「安息日」を私たちが設けることは、主の私たちに対する祝福であり、主のお心であることを知りますが、その起源は天地創造にあり、主が6日間で世界を造り、7日目に休まれたからである、とあります。ただし、7日目にお疲れになって休み、何もされなかったというのではなく、「この日を祝福し、聖別された。」とあります。(創世記2:3)

「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。おのおの自分の考えに確信を持つべきです。特定の日を重んじる人は、主のために重んじます。」(ローマ14:5)という言葉がありますが、私たちキリスト者の重んじるのは、主イエス・キリストです。旧約聖書の「土曜安息」は、イスラエルに対する永遠の契約ですが、私たちは「日曜礼拝」を行っています。セブンスデーアドベンティスト教団は今も「土曜安息」を行っています。私も一時、確かに主イエスが復活されたのは日曜の朝ではあるが、旧約聖書では土曜安息が永遠の契約とあるのに、それを、日曜礼拝に日を変える根拠となりうるのかと悩んだことがあります。主イエスが日曜日の朝に礼拝を行え、と言葉でおっしゃって下さっていたのなら、とよく思ったものです。しかし、視点を変えると、土曜安息という旧約における不動ともいえる戒めが、主イエスの復活の日である日曜安息に変わったことは、私たちの信仰がキリストの復活なしにはあり得ないことであり、主イエスの復活の出来事は歴史を変える大きな出来事なのだ、と強く思うようにもなりました。

ほとんどのキリスト教会はカトリックもプロテスタントも日曜日を「安息日」として礼拝を行っています。既に2000年の歴史があります。日曜日に礼拝を行わない教会は異端なのか?と考えることもあります。日曜礼拝は主日(主イエスの日)礼拝であり、私たち・主イエスによって救われた者、主の復活を信仰生活の中心に置く者にとっては、「主のために(確信を持って)重んじる」日です。

「主日礼拝・日曜礼拝」は律法ではなく、私たちの主イエス・キリストに向かっての信仰告白であると思います。ここが難しい表現となるのですが、守らなければならない戒めというよりも、この日を尊んで、大事な日として神への喜びと感謝をささげることを優先して、共に行うというものなのです。律法となりますと、往々にして主日礼拝を守らない者を、守っている者がさばくことになります。会堂を見回して、今日は誰が来ていない、あの人の信仰は…というのが礼拝の中に入ってくると、既にそこには主の安息はありません。

1、律法(主義)からの解放

「礼拝をささげる」という日が、律法(主義的な意味合い)から解放されなければなりません。

以前にもお話ししたことがありますが、牧師になってある時までは、日曜日の礼拝を迎えて、今日はあの人が来ていない、あの人も来ていない、と人数を数えたり、憂いたりしていました。来ていないことを裁いていたのではありませんが、時には自分の語らせていただいているメッセージが恵まれないからだろうか、何か教会に問題があるからだろうか、と考えることもありました。それは私にとって「安息」の時ではありません。しかし、主との交わりの中で、ある時から、来ている人を見るように変わりました。主がここにいる一人一人をご覧になって喜んでいてくださる。今日も主によって、過ぐる一週間信仰が支えられて、良く礼拝に来られた!主が喜んでいて下さる。あなたは主の奇跡・宝だ!と思うようになりました。そこには、当たり前ではないことが起きている、牧師である私も主の憐れみによって共に礼拝を捧げる者として加えられているのだという喜びがあります。

礼拝で礼拝の本質である「安息」を経験し、味わい、主の安息に憩いましょう。

礼拝が、主の祝福と聖別を受けるリフレッシュ、リバイブの時となりますように。そのような時となる礼拝を勝田台キリスト教会が行うことができますように。

イエスはこう言われています。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

主の臨在を仰ぎ、ここに、私たちをこよなく愛し、一切の権威を持っておられる力強い主イエスがおられることに、今も生きておられる主イエスが共におられることに感謝して憩いましょう。礼拝において私たちが常に待ち望む聖霊がそれを教えてくださいます。

2、形式(的)からの解放

「礼拝をささげる」という日が、形式(的なあり方)から解放されなければなりません。教会の伝統を重んじ、礼拝形式を継承し、礼拝は厳粛なものでもありますので、形式が重んじられるのは自然なことですが、辞書を引きますと形式的とは、形式だけを重んじ内容を問題にしない様、外見だけで内容・実質は問題にしない様とあります。時に、形式を壊して、実質を深く味わえるのであればそうしたいという願望に駆られることもあります。礼拝の形式を行ったことでキリスト者としてのふさわしい義務を果たし終えたと思ってはなりません。

形は大事ですが、さらに大事なのは中身です。

3、奉仕・働き(に翻弄されてしまうこと)からの解放

「礼拝」という日が、奉仕で翻弄されてはなりません。

今年の教会の目標は「キリストの体の部分である自覚をもって、主の働き人になる」ことですが、礼拝は、全ての仕事(主の奉仕は日常の私たちのしている仕事ではありませんが)をやめて、という大前提があります。自分の働きをやめて、主の為に日を、時を聖別し、ただ一心に、主を仰ぎ求めて、主に向かう時であります。もし教会の奉仕の忙しさが私の心を乱すのであるならば本末転倒となります。

教会の多忙なクリスマスの時期などになりますと、そのような経験を特に牧師は少なからずします。

礼拝をキリスト者の責務とすることも、形式を重んじることも、欠かせない奉仕もどれも大切なものではあります。ただし、それが「主の安息」を遠ざけるものとならないように気をつけねばなりません。

マルコ2:27~28

「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。人の子は安息日の主である。」

教会の礼拝があなたにとって、主イエスが与えて下さる安息の日、どのような場所へ行くよりもゆっくりとした休みとなりますように。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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