11月20日(日)礼拝説教全文
「思い直される主」(宥めの供え物を受け入れて下さる主) 出エジプト記32:1~14
神の山ホレブで40日間(24:18)主と会見したモーセは、神の指で書かれた十戒の2枚の石板を抱えて、いよいよ(山の中腹にいたヨシュアと共に)山から下りて来ます。モーセは、アロンとフルとイスラエルの長老たちに民を治めることを任せて山に登っている間、自分とヨシュアを待っているように、と伝えていました(24:14)。
1、金の子牛(:1~6) -大きな罪(:30)- 山の麓では
イスラエルの民はいつものようにモーセはすぐに戻って来ると思っていたかも知れません。40日の間にイスラエルの民は、モーセに対しても神である主に対しても、かたくな(:9)になって、主の命じた道からそれ(:8)、堕落(:7)していきます。
「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちの為に造ってください。私たちをエジプトから導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです」(:1)と言って、民はアロンに詰め寄ります。どうしてこうなったのでしょうか。イスラエルの民の全てが心変わりしてしまったのでしょうか。
これまでの荒野でのイスラエルの歩み、又、後の記事の中から読み取れることは、モーセに対して不満を抱いていた者が少なからず民の中にいたということです。民数記12章では、ミリアムとアロンでさえ、モーセに不満をぶつけて神の怒りを買っています。モーセ不在の間に、反モーセの勢力が大きくなり、モーセに不信を抱く人も増えていったことを覚えます。イスラエルの民の中にある過激な反対勢力を、アロンを含め民全体が抑えられない状況にあったことが窺えます。(民の中の約3,000人が結果として罰せられています。:28)
しかしながら、紅海徒渡をはじめ、エジプトにおいても、荒野においても数々の力強い奇跡、神の助けを経験していた民です。そして、「私たちは、主が語られたことすべてを行います」と告白し、十戒を受けた民です。「私をおいてほかに神々があってはならない。」(20:3)「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」(20:4)。これらは十戒の第1と第2の戒めです。たとえ民の一部の暴挙であったとしても、民全体に責任があります。
モーセから民の指導を託されたアロンもそうです。アロンとその子孫は、これから大祭司、祭司として主の大事な働きを任ぜられた者たちです。アロンは保身の為に、民の訴えに応じます。群衆の声の前に一人の人の弱さを覚えます。
何という事か。アロンは、民が耳につけていた金の耳輪を集めさせ、のみで子牛の型を彫り、金を流し込んで鋳像を造ります。
群衆は「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言います。「アロンはこれを見て・・」(:5)。その声に圧倒されるアロンが見えます。彼は金の子牛の鋳像の前に祭壇を築き、「明日は主の祭りである」と宣言し、翌朝、金の子牛に焼き尽くすいけにえと、会食のいけにえを献げ、民は座って食べて飲み、立って戯れます。
戯れる=辞典:遊び興じる。何かを相手に、面白がって遊ぶ。ふざける。冗談を言う。みだらなことをする。「男女が戯れる」。まさに堕落した姿。ありえない光景です。どうしてこうなるのでしょうか。
正しいことに一致する人の力よりも、悪いこと、暴力的なことに一致する人の力の大きさを知ります。たとえ民が平和を望んだとしても、一部の破壊的な勢力がそれを凌駕していくのを私たちは、争いや戦争、全体主義と言われる思想の中に見ます。
建て上げるのには多くの時間と労力が必要となりますが、壊すのは一瞬です。ウクライナの綺麗な街並みが一瞬で廃墟になる光景を私たちは見ました。
出エジプト以来築いてきた主への忠誠と真実が、破壊的な勢力により一瞬で壊されていくのを見ます。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちの為に造ってください。私たちをエジプトから導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです」(:1)の声が勝ったのです。
2、主の怒りと執り成すモーセ(:7~14)
主は、山の麓にいる民をご覧になり、モーセに言われます「私を止めてはならない。私の怒りは彼らに対して燃え、彼らを滅ぼし尽くす。」(:9)
今、新約の時代に生きる私たちは、「神は愛なり」と、7を70倍にして赦される神を信じています。神である主の寛容は大きく、神は怒るお方ではないと、自分勝手な、ご都合主義の解釈をします。神はいつでも冷静で、感情的なお方ではない、とも。しかし、神である主は情熱的なお方であり、喜怒哀楽をお持ちであることを聖書から知ります。喜怒哀楽が私たちの人生に無かったとしたら、何と無味乾燥、味気のないものとなってしまうでしょうか。神様に対して使う言葉ではないかも知れませんが、私たちの信じる神は血も涙もあるお方です。そして、それゆえに、そこに神と私たちとの豊かな人格的な交わりがあります。
私たちは幾たび、主を哀しませ、主の怒りを買う歩みをしてしまうのでしょうか。
「モーセは自分の神、主をなだめて言った」、とあります。神である主は、人になだめられるようなお方なのでしょうか。
神の前に献げられる供え物のほとんどが、「贖いの供え物」「なだめの供え物」「罪を償う供え物」「贖いの座」です。神との和解の為に、人が神である主の裁き・怒りをなだめる為に献げる献げ物です。神である主は、そのなだめの供え物を受けてくださるお方です。神は、砕けた悔い改めた心を軽んじられません。
モーセは、主の前で、熱心に民のために執り成します。
・ここまであなたの大いなる力と強い手で導いて来られた民ではありませんか。
・エジプト人に「あなたの神は悪意をもって彼らを導き出し、山の上で彼らを殺し、地の面から滅ぼし尽くした」と悪口を言わせていいでしょうか。
・アブラハム、イサク、イスラエルに与えられた契約・約束(子孫繁栄と地を受け継がせる約束)を思い起こしてください。
・燃える怒りを収め、ご自分の民に下す災いを思い直してください。
それで主は、ご自分の民に下すと告げられた災いを思い直されます。
神は振り上げた矛を収められます。
神は罪(主の命じた道からそれ、堕落すること)・不義・不敬虔に対して怒り、それらの者を罰し、滅ぼされます。
しかし、どのような罪であっても、それを悔い改める者、償う者、立ち返る者を神は赦し、受け入れられます。
* 神である主は怒りを収められますが、次回になりますが、モーセは下山して民の姿を見、激しく怒ります。
第一ヨハネ4:10
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」
ローマ3:25 「神はキリスト・イエスをその血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」(新改訳) あがないの供え物(口語訳) 罪を償う供え物(新共同訳) 贖いの座(聖書協会共同訳) イエス・キリストこそ、私たちの宥めの供え物です。
「神は侮られるお方ではありません」(ガラテヤ6:7)。私たちの救い主、御子イエスは、神の怒りを買うしかない私たちのために、神から与えられた「宥めの供え物」となって下さったのです。モーセが神である主とイスラエルの民との間に立って、民のために執り成したように、今、私たちと神である主の間に立って、ご自身を「宥めの供え物」「贖いの供え物」として献げ、執り成していて下さるのが、主イエス・キリストです。
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