11月27日(日)礼拝説教全文
「私のもとに来なさい」-心をかたくなにせず- 出エジプト記32:15~29
「主に付く者は誰でも私のもとに来なさい」(:26)
第一コリント10:5~13 先週と今週のメッセージのまとめの内容
参照:民数記21:4~9 木に架けられた青銅の蛇を仰ぐものは救われる (民数記25:1~9 偶像礼拝、モアブの女との不品行の罪により23,000人が疫病で主に打たれる…第一コリント10:8)
1、十戒の石の板を砕き、金の子牛を焼いて粉々にするモーセ(:15~20)
神の山ホレブで40日間(24:18)主と会見したモーセは、神の指で書かれた十戒の2枚の石板を抱えて、ヨシュアと共に山から下りて来ます。モーセは宿営近くに来て、戦いで雄叫びを上げる兵士の様な民の歌声を耳にします。そして、金の子牛と、その前で踊っている人々の姿を見ます。
既に、山の上で主によって言われていたことを(:7~8)目にします。
モーセは怒りに燃え、手にしていた2枚の証しの板を投げつけ、山の麓で打ち砕きます。
感情に任せて、石の板を打ち砕いたようにも読めます。神から直接十戒を書いて頂いた大事な板です。彼が十戒の石の板を砕いた理由はわかりませんが、このようなイスラエルの民には十戒を受け取る資格がありません。さらにモーセは、彼らが祭っていた金の子牛を火で焼き、粉々にして水の上にまき、それをイスラエルの人々に飲ませます。金の子牛は彼らと一心同体、彼らの汚れはまさに彼らの腹にあります。
2、アロンの言い訳(:21~24)
アロンは自らの責任を放棄して、モーセに言い訳をします。
「この民が悪意に満ちていることは、あなたがご存じです」(:22)。確かにこれまでも、イスラエルの民はモーセとアロンに何度も反対し、不平を言い、殺す勢いで反対したこともあります。モーセも音を上げて主に訴えたことがあります(17:4)。
アロンはこの民の不満を抑えきれなかったことを告げています。そして、彼らから金を集めて、火に投げ入れたら「金の子牛が出てきた」という実に苦しい言い訳をしています。のみで型を彫り、金を流し込んで鋳像を造ったのはアロンです。明らかな偽りの言い訳ですが、このまま彼らの言い分を聞かないで、そのままにしていたら、どんな暴動が起こっていたか予測できないほどに、これまでのイスラエルの民の出エジプト以来の経過を見ると、悲惨なものとなっていたかも知れません。
3、「主に付く者は誰でも私のもとに来なさい」(:25~29)
民が勝手なふるまいをしたことに対してモーセは …金の子牛を砕いて水に混ぜて飲ませた
アロンが民に勝手な振る舞いをさせたことに対して …アロンを追求し
敵対する者の嘲りの的になった …敵対する者=周辺に住む異邦人を指します
モーセは宿営の門に立ち、「主に付く者は誰でも私のもとに来なさい」(:26)と民を招きます。
この言葉を本日のメッセージの中心として、説教題としました。
「誰でも」です。民の中には率先してモーセに反対していた者もいたでしょう。それに賛同していた人もいたでしょう。又、しぶしぶ賛同していた人もいたでしょうし、本心では賛同できなくて勇気がなくて反対できなかった人も多かったと思います。
モーセのもとに多くの人が来たと思われます。「レビ人は皆彼のもとに集まった」とあります。アロンをはじめとする祭司に任ぜられた者たちです。
ここが命運の分かれ道です。
先週と同じメッセージをお伝えしますが、神は砕けた悔い改めた心を軽んじられません。どんな罪を犯した者でも(たとえそれが大きな罪であれ、聖書で言われる罪であっても)、悔い改める者を打つことを「思い直されます」。
聖書は、いつの日か私たちが神の前で裁きを受けることを伝えています。羊とやぎを分けるように、救われるも者と打たれる者とに分けられます。神は全ての罪ある者を滅ぼされます。神は一点の闇もない聖なる義なるお方です。しかし、罪ある者が悔い改めるならば(この悔い改めには「宥めの供え物」が必要です)、どんな罪も赦し、そして受け入れて下さいます。
罪を犯さないように生きることは重要ですが、罪を犯した時、悔い改めるのはもっと重要なことです。
神の義とは、罪を裁かれることもそうですが、悔い改める者を赦される、義とされることもそうです。
宿営の門のモーセのもとに来ないで、宿営に残った人々がいました。
ここになおも「かたくなな」イスラエルの人々を見ます。
そこでモーセは、モーセのもとに集まったレビ人に命じます。
「イスラエルの神、主はこう言われる『おのおの剣を腰に帯び、宿営の門から門まで行き巡り、
自分の兄弟、友人、隣人を殺せ』」
どうしてイスラエルの民全てがモーセのもとに集まらなかったのか、と残念に思います。
宿営に残った者は、自分の兄弟であっても、友人であっても、隣人であっても…今まで共にエジプトから出てきた家族です。レビ人たちのこの任務は、どんなにか心痛い任務だったでしょう。
神である主は、思い直されたのに、打たれる人々は、主を、モーセを軽んじて、宿営の門には来ませんでした。
「この日、民のうちの3,000人が倒れた」(:28)何という悲劇でしょうか。イスラエルの民がイスラエルの民を自らの手で打つのです。涙なしには剣を振るえなかったでしょう。やりたくなかったでしょう。自分たちも金の子牛が祭られていた時、それを見て見ぬ承認をしていたのです。神である主に、同じように裁かれるべき存在、同じ罪びとです。
レビ人たちは、宿営の隅から隅まで行って言われたことを実行します。
モーセは民に言います「今日、あなたがたはおのおの自分の息子や兄弟を犠牲にしても、主に仕える者になった。それゆえ、今日あなたがたに祝福が与えられる」(:29)。
「自分の息子や兄弟を」打った者もいたという言葉です。躊躇なくこれをできる人はいません。
イスラエルの民にとって、戦争や災害で死ぬよりも大きな犠牲です。
しかしこれは、本来であれば、「滅ぼし尽くされる」(:10)神の怒りとお心が、「思い直された」結果であると言えます。
主の祝福は戻ったかも知れない。しかし、主なる神への畏れ、罪の結果の悲しみをどれ程にイスラエルが味わったか、それは言葉になりません。
確かに、「今は恵みの時、今は救いの日。」(第二コリント6:2)しかし、その期間はいつまでも続きません。「主に付く者は誰でも私のもとに来なさい」とイエスが呼ばれる決断の日が来ます。「今日、あなたがたが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けた頃、神に背いた時のように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:7~8)
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