12月18日(日)礼拝説教全文
「主を崇め喜びに満ちた信仰生活」 2022年12月18日日曜日の礼拝説教
曽根岡フサ子勧士
聖書箇所:マタイによる福音書1章18節~25節
ルカによる福音書1章26節~38節
皆さんおはようございます、こうして皆さんにご挨拶できるのも2020年の1月最初の週にmessageをさせていただいて以来約3年ぶりとなります。このコロナ禍の中でも、いろいろな事が整えられて、こうして皆さんのお顔を見ることが出来て大変うれしく思います。
ところで、12月25日の前の一番近い日曜日から数えて、イエス様がお生まれになる4週間前をラテン語でアドベント、日本語で降誕節と言うとお聞きになった方もいらっしゃると思いますが、今日は、そのアドベントの4週目となります。一週目ごとに4本あるろうそくの一本に灯をともしてゆくので、きょうは、4本のろうそくに灯が灯っています。いよいよあと一週間でイエス様がお生まれになるクリスマスを迎えることになります。
この喜びの日を前にして、当時のユダヤ社会の掟とともに、主イエス∙キリストの父ヨセフと母マリアの信仰に焦点をあてて, お二人の信仰から学びたいと思います。
また、振り返って、私たちの信仰生活についても考えてみたいと思います。
イエス様がお生まれになる前のユダヤの国は、ヘロデ王がユダヤを治めていましたが、ローマの支配下にありました。ローマの支配下にあっても、ローマ帝国は、ユダヤ教を認めていたため、当時のユダヤ人は、ユダヤの法律である律法に従っていました。
このような環境の中で、「母マリアは、ヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」(マタイ1:18)とあるように、マリアは、聖霊によって子供を授かったことを知ります。
ヨセフとマリアが一緒になる前に、「聖霊によって」子供ができたとは、マリアにとっても婚約者のヨセフにとっても青天のへきれきのような出来事だったことと思います。二人の心の中には、いったいこれはどういうことかといったとまどいや困惑などいろいろな感情が湧いたのではないかと思います。しかも、ユダヤ社会の法律、律法によれば、婚約者でない他の人によって妊娠したということは、重大な罪を犯したとみなされ、みんなから石を投げられて殺される、すなわち石打ちの刑に処せられることになっていました。多分かなり悩んだすえに、ヨセフは、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(マタイ1:19)とあります。一説によると、マリアは、まだ15~16才だったそうです。そんな若いマリアが石打ちの刑に遭うのを可哀そうに思って、ヨセフは、表ざたにしないでひそかに婚約を解消しようとしたのでしょうか。そんなヨセフは、天使ガブリエルから「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは、男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20~21)と夢の中で知らされます。様々な心の葛藤がある中で、ヨセフは、そのお言葉を聞いて、主のみ使いのおことばに従順にお従いし、マリアを妻として迎え入れました。ヨセフには、ただ単に人間的に心優しいだけでなく、信じられない出来事に対する自分の感情よりも、主のお言葉に素直にお従いする信仰があったことがわかります。
一方のマリアは、聖霊によって身ごもっていると言われて、どのようにこの事実を受け止めたのでしょうか。 マリアは、石打ちの刑に遭うかもわからない状況の中にあって、「本当に私は主のはしためです。どうぞ主の使いガブリエルのお言葉通りにこの身になりますように。」(ルカ1:38)と答えられています。この「はしため」という言葉は、今の世の中ではあまり聞きませんが、一般的には「身分の低い女、へりくだった者」と言う意味がありますが、マリアの言う「はしため」と言う言葉には、神との関係性の中で、天地を創造された偉大で、死と生をも支配される神に対し、自分がいかに小さいものであるかをへりくだって表している言葉だと言われています。ある解説によると、「神のみ前に、小さく卑しい自分が、神に選ばれ、神に用いられ、み言葉に聞く者とされたこと喜んでいる」ことを表している言葉だそうです。神に対するマリアの謙遜な心が表れていると思います。この後、主の使いの言葉を素直に信じるマリアに対して、いとこのエリサベツは、「主によって語られたこと必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)と言ってマリアをほめたたえています。このように、イエス∙キリストは、主のみ言葉に従順にお従いするヨセフとマリアと言う信仰深い両親のもとに生まれて来ようとしておられたことがわかります。ヨセフとマリアは、裕福な育ちでもなく、身分の高い者でもなく、また当時の高い教育を受けた者たちでもありませんでしたが、その信仰によって、神からイエス∙キリストの父母に選ばれたのではないでしょうか。
神から重大な使命を託されたマリアは、ルカによる福音書1章46節から55節で、マリアの賛歌といわれる神をほめたたえる歌を賛美しています。この賛歌は、新約聖書の詩編とも言われて、喜びと感謝に満ちています。その個所をお読みします。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐みは代々に限りなく、主を恐れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。しもべイスラエルを受け入れて、憐みをお忘れになりません、私たちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
この賛歌の中で、マリアは、まず、「私の魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(ルカ1:47)と歌っていますが、この短い賛歌の中で、マリアの信仰をよく表している三つのことが語られていると思います。
まず、「主をあがめる」ということです。「あがめる」という言葉は、神と言う偉大な存在、あるいは絶対的な存在かつ神聖なものとして崇拝することを意味するそうです。主とは、主だった人、中心的な人として、日常生活でも「主人」と言う言葉のように使われることがありますが、旧約聖書の時代で主という場合は、全てのものの創造者、生と死の支配者と言う意味で、神を表す言葉であります。新約時代では、十字架の死と復活のイエスへの信仰から、イエスが主であると告白しています。マリアは、全てのものの創造者である主を偉大な存在として認め、崇拝していることがわかります。振り返って、わたしたちは、全てのものの創造者である主の存在を認めているでしょうか。私たちは、時に偉大な神の存在を忘れ、自分が主になったような振る舞いをしてしまうことはないでしょうか。
二番目に、マリアは、神を救い主だと認めています。神は、神のひとり子であるイエス∙キリストをこの世に遣わしてくださいました。何のためにでしょうか。それは、私たちの罪の贖いのため、すなわちイエスが私たちの罪の身代りとなって十字架に掛かってくださるためでした。旧約の時代には、罪を犯した自分や自分た
ちの代わりに羊や牛といった動物の命を捧げていましたが、イエスが来られてからは、もうそうする必要がなくなったんですね。
ところで、ほとんどどの宗教でも、死後裁かれると言われています。皆さんは、良い行いをした人は天国あるいは極楽に行き、悪い行いをした人は地獄に行くと教えられたことはありませんか。聖書では、「正しい人はいない、一人もいない」(ローマ3:10)と言っています。正しい人とは、法律に反することをしない人と言う意味ばかりではなく、神の義つまり神の目から見て正しい人を指します。人の目には立派で正しく歩んでいるように見える人であっても、心の中で、人をねたんだり、悪く思ったりすることは、神の目には善し
とはされません。今まで生きてきた人生の中で、一つもそういう罪を犯したことがない人はいるでしょうか。私自身をふりかえってみても、何度、人を悪く思ったり、うらやんだり、ねたんだり、腹を立てたりしたことかと思います。つまり私たちは、みんな天国や極楽に行けるような者ではないんですね。そのような者の代わりに、イエス様は、私たちの罪を背負って十字架にかかってくださるためにこの世に来てくださいました。
それだけではなく、更なる祝福を与えてくださっています。イエスによって、罪のないものとされた私たちは、たとえ、私たちの肉体が滅んでも、霊は、神、イエス∙キリストそして聖霊とのお交わりの中で、永遠に生きるものとしてくださいました。このことから私たちは、死の恐怖からも解放されています。
話は変わりますが、私が高校生の頃、ある新興宗教に熱心だった近所のおばさんに誘われて、その道場に通ったことがあります。そこでは、悪いことをすると罰を受けたり地獄に行くと教えられて、私は、法律に触れるような犯罪や、思い当たる罪を犯してはいませんでしたが、それでもいつ神様から罰を受けるかと怖くてしかたがありませんでした。その後、勝田台に越して来て、当時八千代高校の前にあった勝田台教会を、26才の時に初めて訪れました。初めて出席した勝田台教会の礼拝で、何かとても聖らかなもののみ前に、私の真っ黒な心が映し出されたようで、賛美歌の歌詞も見えないほどに、涙が止まらなかったことを覚えています。 そんな私に、牧師の読み上げる第2テモテの手紙2章22節と23節のみ言葉が響いてきました。
「若い頃の情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。 愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。」
一番後ろに座っていた私の前には、何人かの方々がいましたが、神様が、直接私にだけ語り掛けてくださったように感じました。それだけでなく、神様は、今まで私が、どんな生活を送って来たかをお見通しだと思いました。このみ言葉の通り、私は、愚かで無知な議論に明け暮れ、それが争いのもとになることを経験していたからです。そんな私に、神様は、私の欠点を厳しく叱るのではなく、「あなたも知っているとおり」と優しくおっしゃって悟らせてくださったことを忘れることができません。それだけでなく、「清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」と、私のこれからの行く道をも指し示してくださったのです。このみ言葉に導かれて、私は教会に通うようになりました。聖書研究会、祈祷会、礼拝と出席していくうちに、み言葉を学び、イエス様のことを知っていくようになりました。この学びの中で、イエス様が、私たちの罪を支払ってくださったと知って、どんなにほっとしたことかよく覚えています。そして教会に通い始めて2年余りたってから、ついに、イエス様は、私の主であり救い主だと信じ告白して、九十九里浜の波の中で洗礼を受けさせていただきました。私のような罪びとを受け入れ、主の弟子としてくださった主の愛とあわれみにどんなに感謝してもしつくせない感謝の念をもっています。 洗礼を受けて今年で、ちょうど五十年になりますが、イエス様を知ってから、争いに明け暮れ落ち込んでいた日々とはちがい、何と多くの平安や恵みを与えてくださったことかと思います。
主は、み言葉をもって、導いていてくださっています。まさに、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119篇105)
イエス∙キリストは、まことに、私の救い主です。こんな主イエス様を私は、一人でも多くの方に知っていただきたい、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ人になっていただきたいと願っています。間もなく私は78才となり、この地上での日々もそう長くはないと思うとき、死への恐怖がないどころか、主の御許に行かせていただけるという喜びがあります。
三番目に、マリアは、救い主である神を喜びたたえています。 旧約聖書の中においても新約聖書の中でも、「喜び」、「喜ぶ」と言ったみ言葉がたくさん出てきます。そのひとつ、第一テサロニケへの手紙5章16節から18節には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあり、「いつも喜んでいなさい」のみ言葉が冒頭にありますが、「いつも」ということは、状況が良い時でも、喜べないような時でも、いつも喜んでいることは、神さまが私たちに望んでおられることなんですね。マリアは、イエス様を身ごもって、婚約者のヨセフにあらぬ疑いをかけられるかもしれない、町中に不名誉なうわさが流れ、その町に居づらくなるかもわからない、その挙句の果てに、人々から石を投げつけられて殺されるかもしれない、そんな状況の中にあっても、マリアは、神をあがめ、主なる神を喜びたたえています。
私たちは、このような喜びに満ちた信仰生活を送っているでしょうか。聖書の中で語られている様々な善い行いを、クリスチャンだからこうしなければならいと、義務的あるいは律法的にとらえて、重荷に感じたり、がんじがらめになったりしていることはないでしょうか。また、主のみこころのままにできないと、「自分はダメなクリスチャンだ」と落ちこんだりしないでしょうか。「そうは言っても、喜べない状況の中で喜んでなんかいられない」というのが、私たち人間の姿であり、正直な気持ちではないかと思います。特に今、試みの最中にある方や苦しみの中にある方は、そう思うのも無理のない事だと思います。そんな私たちに、イエス様は、永遠に私たちと共にいてくださる聖霊様と言う助け主を送ってくださるように神にお願いしてくださいました。(ヨハネ14:16~17) また、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)とも語っておられます。この聖霊の実が、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」と九つありますが(ガラテヤ5:22~23)、「喜び」は、愛の次に二番目にあげられています。自分で頑張らなくてもいい。この聖霊様に満たされ、聖霊様が、私たちと共におられ、私たちの内にあって、全てのことを教えてくださることにお従いするとき、私たちは、たとえどんな状態にあっても、喜びに満たされされると思います。神様は、マリアのように身分の低い、貧しいはしために目を留めてくださったように、私たち一人一人にも目を留めてくださっています。神様は、私たち一人一人を、ありのままに受け入れ、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と語ってくださっています。このイエス様に、あなたも従って行ってみませんか。自分が頑張って何かをするのではなく、聖霊様に心を満たしていただき、聖霊様に導かれながら、喜びに満ちた信仰生活を送っていこうではありませんか。
お祈りします。 アーメン
0コメント