12月25日(日)礼拝説教全文
「私たちの間に住まわれる神」 ヨハネ1:1~18
本日は12月25日、クリスマス礼拝であり、又、2022年、今年最後の礼拝となりました。クリスマスを祝うと共に、一年の感謝を、礼拝をもって献げたいと思います。
今年一年、出エジプト記を礼拝の中で読み、特に後半では、モーセの十戒や、幕屋建設の準備についての記事を読んできました。少し読むのが大変だったかも知れませんが、私は、出エジプト記を講解説教するのは初めてでしたし、とても大きな神様の恵みを受けました。
神である主が、ご自身の民に、罪を犯すことのないように十の戒めと共に、多くの律法をお与えになりました。人の作った戒めではなく、神が語られた破ってはならない、守るべき、従うべき戒めです。
そして、律法と共に指示されたのが「幕屋の建設」です。
神である主が、イスラエルの宿営(住居の為に張っていたテント)の真ん中に作れと命じられた「幕屋の建設」の目的は、「私は彼らの中に住む」(出エジプト記25:8)ためでした。
2022年のクリスマスメッセージのテーマを「私たちの間に住まわれる神」としましたのは、今読みましたヨハネによる福音書1章14節「言は肉となって、私たちの間に宿った」というみことばによってであります。特に「宿った」という言葉に、聖書協会共同訳聖書の注がついている聖書にはfのマークがあり、fの箇所を見てみますと、直訳「幕屋を張った」と記されています。
以前にも、このヨハネによる福音書の1章をわかりやすく読むひとつの方法は、「ことば」を「イエス」と読み替えて読んでみると良いとお話ししました。そのように読んでみましょう。ヨハネによる福音書はイエス・キリストの生涯について記録したものですが、ヨハネは、イエスが神であり、神が人となられたことを、先ずはじめに記していることがわかります。
主イエス・キリストは、肉となって(人となって)、私達の間に「幕屋を張られた」、となります。宿営された・宿を取られたということです。何ゆえに?私達と共に住むためにです。
イエス・キリストと共にある人の生涯とは、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録21:3~4)
イエス・キリストがお生まれになったクリスマスの出来事とは、神の愛の実現結実であり、神が私たちと共におられることの「しるし」なのです。イエス・キリストを私の生涯に受け入れる時に、古い生き方は全く新しい生き方に変えられます。それは、神と共に生きる生涯がスタートするということです。
私たちの教会ではコロナ禍によってインターネットでの礼拝をスタートし、配信において個人名は出さないように配慮しつつ進めてきました。しかし、本日は本人の了解を得ていますので、お証しさせていただきたいと思います。
教会員の高野偕子姉が、通院の途中で転倒され入院をされました。奥様の入院中、高野康夫兄はご自宅でおひとりの生活となりましたが、そのような中で病院の検診でがんが見つかり、検査の結果ステージ4という厳しい内容でした。奥様が入院中であり、自分も入院しなければならないかも知れない。実際入院しなければならない状況でしたが、通院という形で放射線と抗がん剤の治療を受けられ、ご自宅で療養されることになりました。客観的には非常に心細い状況であると思います。
「なんとか偕子さんが退院するまで、今の状況で頑張りたい」との高野兄の思いを受け止め、本当に厳しい闘いであること認識して教会員皆さんと共に主に願い、祈りました。高野康夫兄は、病気の苦しみを耐え忍びながら、主に願い、祈っておられました。夜中の苦しみの中、何時間も眠れない中、羽鳥明先生や本田弘慈先生のCDを少し大きな音量で聞きながら時間を過ごしておられました。CDの説教の内容は全部覚えたと言っておられます。高野兄のお宅に祈りに行く度に感じたのは、「神である主が共におられる」ということでした。詩篇121篇、詩篇23篇の聖書のみことばを何度も読み、共に祈りました。
「昼も夜も、まどろむことなく、眠ることなく、主イエスが共にいてくださり、守ってくださる。」この力強いみことばをご自宅でおひとりで闘病する中、高野康夫兄が誰よりも強く経験されたと思います。
人はひとりで生まれ、ひとりで世を去ります。そのような言葉を聞くと何と人は孤独な者でしょうか。
しかし、知ってください。主イエス・キリストが来られたのは、人はひとりで生まれ、神と共に世を去るためであることを。この平安は誰も奪うことができません。
イエスを、私の人生に迎え入れる(信じる)ことは、どんなに大きな祝福でしょうか。
最後に少しだけ、どのように主イエス・キリストを私の人生に迎え入れるのか、についてお話ししたいと思います。
イエスが十字架で死なれたのは、ここにいる私の、あなたの罪のためであった と知ることです。私を罪から救うためにイエスは来られたのです。「御子イエスの血は、あらゆる罪から私たちを清めます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。」「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めて下さいます」(第一ヨハネ1:7~9)
神の御前に、自分の罪を告白して悔い改め、イエスの十字架による罪の赦しを受け取ることです。
ここに救いがあります。
「私に何の罪があるというのでしょう。私は警察のごやっかいになったことがありません。あなたは罪人です、悔い改めなさいと言われるような罪を犯したことがありません」、と人は言うかも知れません。
盗んだり、殺したり、姦淫をしたり、偽証をしたりしたことはないかも知れません。
しかし、憎んだり、殺意を抱いたり、妬んだり、情欲で異性を見たり、私たちの内側は不正に満ちています。
そして、聖書を読んで知らされる自らの大きな罪は、神に対しての不信仰・不敬虔の罪であることを発見します。「神を神として崇めず、感謝することもせず、かえって空しい思いにふけり、心が鈍くなり、自分は知恵ある者と称しながら愚かになり、不滅の神の栄光を、滅ぶべき人間や鳥や獣や地を這うものなどに似せた像と取り換えたのです」(ローマ1:18~32)
神の御前では、私たちの罪はどんなに大きなものでしょうか。
悔い改めるとは、向きを変えることです。改心、ターニングポイントとして方向転換することです。決断して、今まで自分の犯した罪、すなわち、神を神として礼拝せず、感謝をすることもなく、神に背を向けていた自分のこれまでの人生を悔い改めるのです。
ところで、一般的に誰か人に罪を犯した場合、相当の償いをもって赦しを乞わなければなりません。しかし、人が神に対して罪を犯しているなら、何をもって償わなければならないのでしょうか。自分の命をもってでしょうか。いいえ、あなたの罪の赦しのために、既に主イエス・キリストが十字架の上でご自身の命という代償を支払って下さいました。
それを、信じ、受け取るだけで良いのです。
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