1月15日(日)礼拝説教全文
「悔い改めて神に立ち返れ」 出エジプト記33:1~6
皆さん、キリストをしっかりと着て、毎日をスタートしていますか。
年末年始において、出エジプト記から少し離れていましたが、本日から出エジプト記に戻り、続けて読んでいきたいと思います。
前回は32章において、イスラエルの民が自らの大きな罪の故に招いた滅亡の危機を見ました。神の臨在の山ホレブの前に宿営していたイスラエルの民は、山に登ったモーセを待てず、祭司アロンが金の子牛の像を作り、これを拝み、その前で堕落し、戯れ、騒いでいました。民の中の3,000人を彼ら自身の手によって剣で打ち殺さなければならなかった悲惨な罰、神の裁きがありました。その罪は「大きく」(32:30)全ての民がその場で滅ぼし尽くされてしまう程の(32:10)出来事だったのです。神によって立てられた指導者モーセは、この絶体絶命の危機の中で、身を挺して「罪の赦し」を神の前に願い、民の執り成しをしました。モーセの執り成しによって「主は、ご自分の民に下すと告げた災い(滅ぼし尽くすこと)を思い直された」(32:14)とあります。
33章の見出しは「出発の命令」となっています。
主はモーセに、長く留まっていた神の圧倒的なご臨在の山ホレブから、神の約束の地カナンへの出発を命じます。乳と密の流れるカナンの地にいる幾つもの部族を、主自らが追い出し、この地を先祖に約束していた通りにイスラエルの民に与えると主は約束されます。出発せよ。ここまでですと、本当に感謝な内容です。
ただし、「しかし、私は、あなたの間にいて一緒に上(のぼ)ることはない」と言われます。なんということか。「一緒には行かない」と言われます。神の怒りは治まり、罪は赦され、再び、約束の地カナンを与えると言われますが、「私は共に行かない」と言われるのです。先祖への約束は果たすが、共に行かないという内容です。
その理由を「あなたがたはかたくなな民で」「私が途中であなたがたを滅ぼすことがないためだ」と言われます。イスラエルの民が滅ぶことのないために、共に行かないと言われるのです。
出エジプト記は、「幕屋の建設」「出発」で終わります。この後、カナン侵入に至るまで、40年の荒野の放浪の出来事がありますが、民数記・申命記に出発後の出来事が記されています。いつか、荒野の40年の出来事を読む機会もあるかも知れませんが、その40年は、主の言われる通り「かたくなな民イスラエル」「途中で滅ぼされるイスラエル」の内容です。
エジプトから出たイスラエルの民(20歳以上)の何人が、カナンに入ることができたか、皆さんは知っていますか。女性や子供たちは数えられていませんが、2人です。ヨシュアとカレブの二人だけです(民数記14:26~33)。モーセさえもカナンに入ることはできませんでした。(参照 第一コリント10:5、ヘブライ3:16~17)
事実、イスラエルの民は荒野で、神が一緒に行かれる故に滅ぼされるのです。「私が途中であなたがたを滅ぼすことのないためである。あなたがたはかたくなな民であるから。」この後、主の語られた通りになるのです。
「私は一緒に上ることはない」と言われる主の言葉を聞いて、モーセもイスラエルの民も落胆し、嘆き悲しみます。主はモーセに、イスラエルの民の身に付けていた飾りを取り外すように命じます。
イスラエルの民の「かたくな」とは何でしょう。(辞書には「物の道理に合わないことを固く守って譲ろうとしないさま。頑迷。」とあります)
「悔い改めのない心」「悔い改めにふさわしい実を結ばない生活」です。
主イエスはその宣教のはじめに「悔い改めよ。天の国(神の国)は近づいた」と言われました(マタイ4:17)。自分が「かたくなな者」であることを認め、自覚して、神の前にある自分の罪を悔い改め、神に立ち返ることを求めておられます。
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)にかかっていますが、イスラエルの民のかたくなさとは何でしょうか。
偶像礼拝です。「私のほかに何ものをも神としてはならない。」という十戒の第1番の戒めが与えられているのに…。
神を愛する者が、他の神々を拝むことがあるのでしょうか。
「金の子牛」は全ての偶像のひな型です。奴隷生活から民を解放し、水を与え、肉を与え、パンを降らし、恵みを与えて下さる、私たちの創造者なる神に対して、他の神を拝むことを何度も何度も(「十度も」民数記14:22))繰り返します。
神のことば(戒め)に背くことです。
神を愛する者は、神のことばに従います。
最初の人間の罪は、「園の中央にある善悪を知る木、この実を取って食べてはならない。必ず死ぬ」と言われた神のことばに背くことから始まりました。
人は欲を制御できません。
「欲望(神を退け、自己中心の願い・思い)がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:15)。
何度も何度も(十度も)神の戒めに背きます。
感謝せず、賛美せず、礼拝せず、つぶやくことです
神を愛する者は、神に感謝し、神を賛美します。
イスラエルの民は荒野において、モーセとアロンに、そして神に十度もつぶやきます。
エジプトでの生活の方が良かった、と。
神の選びの民ではありますが、荒野で主によって滅ぼされてしまうイスラエルの民の愚かさ、かたくなさを聖書は繰り返し、私たちに伝えます。
どうしてこんなにつぶやくのだろうか。どうして戒めを守らないのか。どうして偶像を拝むのか…
なんと愚かな人たちだろうか。
聖書は私たちの鏡です。
悔い改めて、神に立ち返るのは 私であり、あなたです。
そして、悔い改めにふさわしい実を結びましょう。
私たちの霊的革新、リバイバルは、悔い改めから始まります。
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