2月5日(日)礼拝説教全文
神の主権と憐れみ」 出エジプト記33:12~23
皆さん、年の初めから、日々にキリストをしっかりと身に付けて歩んでいますか。
前回は、モーセが宿営の外に天幕を張って、そこを「会見の幕屋」と呼び、主はそこで「顔と顔を合わせるように」モーセと親しく語られた箇所を読みました。
イスラエルの民は、「金の子牛」の偶像を作ってこれを拝むという、神である主の前に考えられないような大罪を犯します。民の指導者モーセは、主の前に赦しを乞い、民の罪をとりなすために、三度、主に願います。
一度目は、32:11~14「燃える怒りを収め、ご自分の民に下す災いを思い直してください」。二度目は32:30~35「今もし彼らの罪をお赦し下さるのであれば・・・、それがかなわないのであれば、どうぞあなたが書き記した書から私を消し去ってください」と身を挺して主に願い求めます。イスラエルの民にも悔い改めの機会はありましたが、かたくなな3000人の人々が打たれました。そして本日の箇所となります。
本来でしたら「滅ぼし尽くされてしまう民」でしたが、モーセの命がけのとりなしによって、主は思い直されます。その後、約束の地への出発と、その地を与えるという言葉も主からいただきますが、「約束の地は与えるが、私は共に行かない。途中であなたがたを滅ぼすことのないためである」というものでした。
モーセは、幾度となく、「先祖への約束を思い起こして下さい」「ここで民が滅んで、敵対する者があなたをあざ笑うことのないようにしてください」「この民はあなたの民です」と繰り返して言っています。
モーセの願い①
しかし、モーセは、「共に行かない」と言われる主に「民と共に歩んでくださるように」願い求めます。
まず、主に述べます。「あなたは、『私はあなたを名指しで選んだ。あなたは私の目に適う』と仰せになりました。」主よ、あなたが私の名を呼んで選び、立てて下さったお方です、とモーセは言っています。
そして「どうか今、あなたを知ることができるように、私にあなたの道をお示しください」(:13)、私の考えではなく、私を召し、遣わして下さったあなたの道をお示しください、と願い求めています。
主はモーセに、「あなたは私の目に適うものだ、私はあなたと共に歩み、あなたに安息を与える」と言われます(:14)。確かにモーセは神である主が選ばれた、主の目に適う者です。しかし、イスラエルの民はそうではありません。
それゆえ、モーセは、主が自分とだけ共に歩むのでなく、イスラエルの民とも共に歩むことを願います。
主が共に歩んで下さることによって、モーセと主の民は、主の目に適い、主の民であり、特別に選ばれた者であることが明らかにされる、という内容です。
これらは、主の主権と、憐れみに訴え、すがるモーセの切実な願い、祈りの言葉です。
そこで、主はモーセに言われます「あなたの言ったそのことも行う。」あなたの言ったそのことも行う、というのは、モーセと共に歩むだけでなく、かたくななイスラエルの民とも共に歩むというものです。
人の世界では、しつこい人、諦めの悪い人は嫌われますが、主への求め方、祈りは、「粘り強く」がとても重要です。まさにモーセは、執拗に、食い下がって主に求め続けています。
・ アブラハムがソドムとゴモラの町が滅ぼされたときに、主に願い求めたのもそうでした。「50人の正しい者がいるなら・・・、45人の、40人の、30人の、20人の、10人の・・・」(創世記18:16~33)
・ ヤコブが兄のエサウとの再会の時に、神である主と夜を徹して格闘し、執拗に祝福を求めました。「祝福してくださるまでは放しません。」(創世記32:27)
・ イエスは「祈り」について、このようなたとえ話をされています。ルカ11:5~10「友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう」(:8)
・ イエスの十字架に掛かられる前のゲッセマネの祈り。マタイ26:36~45「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」(マタイ26:39)。「三度目も同じ言葉で祈られた」(マタイ26:44)とあります。
求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい。
粘り強く繰り返し、諦めずに、主に求め続ける者に、主は応えて下さいます。
主に求め続けていますか。それが信仰です。
しかし、自分の願いを通すのではなく、遜って、主の主権と憐れみにすがる訴えに、主は応えられます。
私は主に願います。「私にあなたの道をお示しください」
前回「WAR ROOM(祈りの力)」という題の映画のお話をしましたが、まさに、神様である主との、膝と膝を合わせての祈りの格闘の時です。
一度祈って、あとは委ねれば良いのでしょうか。そのような主への求め方ではありません。
祈りは、どのような堅い門をも開きます。叩き続けましょう。
モーセの願い②
モーセは主の栄光(み顔)を見ることを求めます。「どうかあなたの栄光をお示しください」(:18)
畏れ多いことです。なぜなら、人間は主を見て、なお生きていることはできないからです。なぜ、モーセはこのようなことを主に願うのでしょうか。目で見ることのできない神である主を、この目で見たい。よみがえられたイエスをこの目で見たい。それは誰もが願うことです。モーセの願いは、望んではならない越権行為ではないでしょうか。
それでも主は、モーセの願いに違った形で応えられています。
神である主はモーセの前を通り過ぎ、その時、モーセを岩の裂け目に入れて、その栄光の後ろ姿だけを見せられます。
「私は良いものすべてをあなたの前に通らせ、あなたの前で主の名によって宣言する。
私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(:19)
(* この箇所を引用するローマ9:15は、この言葉を解釈する上で、重要な聖句)
神はどうしてアブラハムを選ばれたのでしょうか。どうして兄のエサウではなく弟のヤコブを選ばれたのでしょうか。「これは、人の意思や努力ではなく、神の憐れみによるのです」とあります。(ローマ9:14~16)
神である主は人を分け隔てなさらない(かたよったことをなさらない、かたよりみない)お方です。(使徒10:34)
しかし、主の目に適う者がおり、主に選ばれる者がいます。
立派な人や、地位・能力があることではなく、神の主権と憐れみによります。
イエスの弟子たちもそうだったでしょう。
天使ガブリエルはマリアに、「おめでとう、恵まれた方。」と声をかけられました。
神の主権によってです。
誰が選ばれて、誰が選ばれないということを言っているのではありません。
しかし、今日この確かな事実を知って下さい。ここにいるみなさんの一人ひとり、キリストによる救いを得、神の民とされたあなたは、あなたの意思や努力ではなく、神の主権によって選ばれた、恵まれた人であることを。
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