2月12日(日)礼拝説教全文

「憐れみ深く、恵みに満ちた神」 出エジプト記34:1~17  

見出し:モーセ、山に登る

皆さん、年の初めから、日々にキリストをしっかりと身に付けて歩んでいますか。


仕切り直される神

モーセは神の山ホレブから、神の指で十戒が書かれた2枚の石板を持って下山しましたが、民の不品行に怒りのあまり、叩きつけて砕いてしまいました。しかし、もう一度主は、民と契約を結ぶために、十戒を書き記すための同じ大きさぐらいの石板を二枚準備するように、そしてそれを山の上に持ってくるように言われます。この時も、山には境界線が設けられ、モーセ以外、人も家畜も誰も近づいてはならないと主は命じられます。

主がイスラエルの罪を赦し、もう一度契約を更新される仕切り直しの様な箇所です。

モーセは2枚の石板を携えて再び山に登ります。

主の自己宣言

主の臨在が山に降り、モーセの前を通り過ぎて、主の名によって宣言されます。

誰かに証言されることでなく、主はご自身の御名によって(ご自身の名、その権威にかけて)宣言されます。

「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。

 怒るに遅く、慈しみとまことに富み、

 幾千代にわたって慈しみを守り

 過ちと背きと罪とを赦す方。

 しかし、罰せずにおくことは決してなく、

 父の罪を子や孫に

 さらに、三代、四代までも問う方。」    * 主イエスの自己宣言 「エゴー・エイミ」

出エジプト記20章に主が十戒をお与えになった記事がありました。その5節にも、「私は主、あなたの神、

妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す」とありました。

神である主を愛し、その戒めを守る者への祝福は幾千代に及び、神の罰は三、四代に問われるというものです。

* 二本の剣を持ち、振るわれるお方。

何が善であり、何が悪であるのか。私たちは善悪を知る木の実を食べた者の末裔であるので、誰も言い逃れはできません。人を殺すことや、盗むこと、姦淫すること、偽証をすること、むさぼることは悪であり、過ちであることを知っています。

神である主は、義であり、完全な正しいお方です。神である主は善悪をご存じです。言葉を変えていうならば、神である主と人間だけが善悪を判断できます。(み使いと悪魔は保留)

そして、主なる神は聖なるお方であり、悪を憎まれます。悪を行った者の罪を見過ごしにされません。罰せられます。審判者である神。

しかし、神である主は、憐れみ深く、恵みに満ちたお方です。怒るに遅く、過ちと背きの罪を赦されるお方です。救済者である神。

神様の義と憐れみはいつも衝突します。そこには神の愛、痛みがあります。どれだけ神は忍耐されておられるのでしょうか。

愛する者が「ひとりとして滅びることなく」は憐れみ深い神のみこころです。しかし、悔い改めない、贖われない罪はそのまま見過ごしにはなられません。神である主は、罪びとがご自身のもとに帰って来るのを、忍耐をもって待っておられます。

モーセの前を通り過ぎ、ご自身の名によって宣言される主の前にモーセはひざまずき、ひれ伏します。

既に民の過ちと罪の赦しをいただき、民と共に歩んで下さると言われた主に、今再び繰り返してモーセは「私があなたの目に適うのなら、私たちと共に歩んでください。かたくなな民ですが、私たちの過ちと罪とを赦し、私たちをご自身のものとしてください」と願い求めます。

すると主は、モーセとイスラエルの民と共にあって、契約を結び、力強く導かれる約束をされます。

そして再度、「私が今日あなたに命じることを守りなさい」(:11)と、これまでにも繰り返し言われていた内容を告げられます。

それは、十戒の第一と第二の戒め、「私のほかに何ものをも神としてはならない」「偶像を作って拝んではならない」です。

主の宣言のことばの中に「過ちと背きと罪とを赦す方」というものがありましたが、「過ち」は私たちに日本人にもわかりますが、「背き」はどうでしょうか。

ローマの信徒への手紙1章18節には、「人間の罪」について記されていますが、ここでは「不敬虔と不義」という言葉で表現しています。正しくないこと、不義はわかります。しかし、不敬虔とは何でしょうか。

天地を創造し、私たちに全てを与え、ひとり子さえも惜しまずお与えくださった神である主。

その神である主を神として崇めず、感謝もせず、神に背を向けて生きていることの罪です。

私たちは聖書を通して、自分がいかに身勝手な、自己中心な、不敬虔な生き方、歩みをしているのかを知らされます。

他の神にひれ伏したり、その地の住人と契約を結んだりしてはならない。自分たちの地には偶像を置いておいてはならない。「あなたは鋳物の神々を自分のために造ってはならない」(:17)

徹底的に、偶像を民の中から排除すること、偶像を持ち込むことのないようにその地の住民と契約を結ばないことを命じておられます。

私たちは時に寛容を盾にして、「どの神を拝んでも良いではないですか。もっと寛容に他者を受け入れましょう。だから宗教的な争いが起きるのです。日本には信教の自由があるじゃないですか」と言います。確かに宗教的な争いは多くが闇の仕業です。キリスト教の歴史にも、たくさんの負の遺産があります。今も少なからずあるかも知れません。

確かに私たちの周りには、多くの神々が祀られています。しかし、私、私たちは、それを私たちの内にも、幕屋の中に入れることは決してしません。

どうしてでしょうか。神である主は「妬む神」だからです。

「妬む」という言葉は、あまり良くない言葉として使われます。

日本語の意味の筆頭は、「1、他人が自分よりすぐれている状態をうらやましく思って憎む」とありますが全くこの意味ではありません。「2、男女間のことで嫉妬 (しっと) する。やきもちをやく。」どちらかというとこちらの意味に近いです。

創世記に「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された」(1:27)。とても意義深く味わうことばです。神のかたちとは深く交わる、ひとつとなることです。それを愛と言います。神は神ご自身と深く交わる存在として、人を造られました。

「どうか今、あなたを知ることができるように、私にあなたの道をお示しください」(:13)とモーセは主に願いました。「あなたを知ることができるように。」

神である主を知る。主はどのようなお方でしょうか。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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